この法律は考えてみますと、大変な法律でございまして、国会で地方分権を進めるということを、法律で決めて、しかも具体的な手続きまでも決めているわけでございます。これは日本の中央集権の長い歴史の中では考えもつかないような大きな出来事であったと思います。
この背景には第3次行革審というのがございました。私も実はそこの主査をやっていたわけですが、この第3次行革審の最終答申が1993年の暮れに出されました。その時は細川さんが総理大臣で、今でも覚えておりますが、三菱化成の鈴木永二さんが行革審の会長さんで、関西からは関経連の宇野收さんが会長代理をやっておられました。答申を出した時、細川さんは「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言われたのです。これは何を意味するかというと、「俺は今政治改革に政治生命を掛けている。申し訳ないが行政改革のほうはあと回しになる。政治改革を済ませてからのことになる。」という意味であったのだと思います。細川さん自身が実は第3次行革審の部会長を務め、地方分権のことを一所懸命やられたのですが、細川内閣では実現しませんでした。
そのあと村山内閣になりました。村山総理、五十嵐官房長官、野中自治大臣、山口総務長官という顔ぶれで、これは非常に強力な地方分権シフトとなりました。この方々が中心になって、1994年の暮れ、第3次行革審の答申を出して1年経ったところで、地方分権のための大綱方針を閣議決定しました。その閣議決定に基づいて、翌年の1995年の5月に国会で地方分権推進法が成立したわけでございます。
この法律では政府が地方分権推進計画を作るというように書いてありますが、この推進計画を作るための具体的な指針を分権委員会が勧告することとなっております。従って我々の委員会はまず具体的な指針の勧告を出すというのが第一の使命だったわけです。
例えば機関委任事務制度については皆さんはよく御承知だと思いますが、戦前は官選知事で、内務省が知事を任命しており、その知事さんを中心に地方の行政が行われていました。ですから中央の省庁はその内務省を通して、知事さんに地方の行政をやらせていたという形になっていたわけです。