日本財団 図書館


いうごみ拾いの清掃登山なんですけれども、入山口から下山口までじゃなくて、ああやって集めたごみは各家庭に持って帰って各家庭でまた分別して捨てるということで、ある面ではそれくらいまで徹底しなきゃいけないんじゃないか、そういうことを痛切に考えさせられています。

瀬田 ヒマラヤの酸素ボンベなりガスボンベなり、さっきも西口知事がおっしゃっていたように、紙おむつとかこんろというふうに、ごみって一体何だろうと考えますと、あるときには非常に有用、必要だったもの、それが用が終わってしまって捨てられるだけのもの、あるいは捨てられているものなんですね。もう1つは、多分さっき前田さんの話の中に出てきた、魚つき保安林の中に捨てられているものは、あそこの時点では有用だったかと言えばそうじゃなくて、既に家庭なりどこかで無用になってしまったものをわざわざ持ってきて捨てていると、僕は思うんです。それは、私が住んでいる千葉県の近郊の林の中にも、家電製品があったりビニールの袋なりがどんどん捨てられている。それは、どうも車の社会の中でそれを持ち込んでくるのが多いかなと思うんです。

神長さんの先ほどの立山なり富士山というのは非常に特異かもしれませんけれども、私が美化財団で仕事をしている上高地でごみを探そう、拾おうと思うと、なかなか容易じゃないんです。尾瀬でも、歩いていて1日に1つか2つ、あの木道の間に空き缶が詰まっているかなというぐらいです。歩いているところから物を捨てるというのは、国立公園のようなところではもうしていません。それは、捨てられないような状況をつくるということが必要なわけでありまして、そのためには常に清掃をして整えておくということも1つです。

姉崎 先ほどの意識の変化というのはすごくおもしろく思いました。僕もダイビングをやるのですが、ほとんど余り色のない川の中ばかりでちょっと寂しいのですが、今のサブローさんのダイビングの中での話は、僕自身も非常に胸が痛むことが多くありました。

サブローさんが、意識の変化ということで、今まであっち側にいた人が、ある日、ごみを1つ拾ったのを境に、急にこっち側の人になってしまったということがあって、これは意外と簡単なんじゃないかなと。何か、あるきっかけがあれば世の中のごみ問題の意識ってすごく簡単に変わるんじゃないかという楽観的な見方もちょっとあるのですが、どちらかというと、日本人というのは自分の行動とか生活を余り客観的に見れないというか、自意識があっても自意識過剰の使い場所がちょっと違うんじゃないかという感覚があるんですね。

私たちは、今まで長年、自然の中ですべてが消化されてしまうものだけを使ってきた時代を長く経験してきたわけですから、社会のシステムそのものが、使ったものは捨てれば自然の中で吸収されて消えてしまうんだという、そうした時代のしっぽをまだずっと引きずっているんではないかと思うんです。そうした精神というのは、美意識の中にも綿々と残っているのではないかと思います。

先ほど瀬田さんの方からお話がありましたが、ごみは捨てない、持ち帰ろうという運動が始まりましてからは、かなりいろいろな面で国立公園に関しては意識が高くなってきたように思います。

これはドイツの南部の町なんですが、ドイツは世界で一番環境意識の高い国民が暮らしている場所です。その中で、町並み1つになぜごみが少ないかといいますと、町の中にごみを非常に片づけやすい環境が整っているんですね。これを見てわかりますように、非常に段差が少ないわけです。歩道の出っ張りとか、舗装のやり

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION