日本財団 図書館


輝ける世紀に向って歩む

―スコレー都市・いさわ―

飯田 敦(山梨県石和町総務課広聴広報副主幹)

 

■ 歴史と自然

年間340万人の観光客が訪れる石和町は、歴史の町でもある。平安時代に在位した宇多天皇の勅命によって編纂された『日本三代実録』の元慶8年(884)11月5日壬戊条に、山梨郡石禾郷とある。そこに嘉禾(かか)が生じたと記載されている。嘉禾とは穂のたくさん付いたりっぱな穀物ということであり、ここでいう禾とは粟を示している。そこから、いいあわ、石禾、石和と転じたのであろう。いずれにしても、国史のひとつであり史実にも正確だとされる三代実録の中に石禾郷と登場するのであり、古代から豊饒の地であったことを窺い知ることができる。

甲州街道や青梅街道、鎌倉往還が交差し、水運にも恵まれた石和は、武士たちが跋扈する地でもあった。戦国の雄・武田信玄を生んだ甲斐源氏も平安後期から居を構え、保元・平治の乱には源義朝方に組して、石和信景が出陣したと記録されている。水鳥の飛ぶ羽音で平家軍が敗走したという富士川の合戦での主力は甲斐竹田軍であり、その軍は、石和御厨に集結して出発した。吾妻鏡によると、その中に石和信光の名が見え、西国から九州へと転戦し奥州征伐にも参戦、安芸国(広島県)の守護ともなったとある。

群雄割拠の中世を経て江戸時代になると、甲州街道は五街道のひとつとなり整備が進められ、石和は宿駅(本陣1、脇本陣2、旅籠屋18)として発展した。この地はまた天領だったため陣屋が置かれ、甲府盆地東部の幕藩体制を支える政治・経済の中核としての役割は、明治維新まで続いたのである。甲州の年貢米は当時、富士川の水系の水運によって駿河湾経由で江戸に送られていたが、石和はそれらの物資が集積する河岸としての役割をも担っていたのである。

明治時代を迎えると、200年間続いた代官所は廃止されたが、郡役所や郵便取扱い所、屯所(警察署)、直税関税分署(税務署)、出張裁判所などの官庁が設置され、金融機関も軒を並べるようになったため、東八代郡下の中心的機能を果たすようになった。そして明治36年、県下2番目の町として石和町が誕生したのである。

徳川直轄領の重圧から解き放たれて、自由な商業活動や農業生産により繁栄を築きつつあった石和町だが歴史に残る明治40年の笛吹川大氾濫によって、壊減的な打撃を受けた。

012-1.jpg

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION