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ということが言えます。

当時の造船業の状況を見ると図1のようで,明治29年に航海及び造船の奨励法が制定されて,それまで殆どゼロであった鋼船の建造が増加して,図に実線で示すように明治30年には5,000トン,明治31年には1万トン,明治37年には2百トンになっています。それでも明治時代はまだ外国船の購入に頼っていて,図1に破線で示すように日清戦争の頃に9万トン,日露戦争の頃に18万トン程度を購入しています。当時,世界の造船量は年100万トンから200万トンで,そのうち10%程度はまだ帆船だった時代であります。

さて,この時代にどんな船が造られていたかと言いますと,図2に見るように明治4年に日本で最初の鉄船である新潟丸64GTが建造されてから僅か27年後の明治31年,即ち造船協会が設立された翌年には,欧州航路の常陸丸6,172GT(図3)が三菱合資会社長崎造船所で建造されています。この船はそれまで軍艦と沿岸航路に限られていた日本の造船業が初めて外航船に挑戦した画期的な出来事で,三菱は技師や工員をイギリスに派遣して技術を習得させ船台を拡張して新船の建造に備えています。ところが常陸丸の建造に際して,ロイド船級協会のイギリス人駐在検査員が鋲接手の仕上がりに対してクレームをつけ,造船所では60万本に及ぶ鋲を全部チェックして,疑わしいものは全部打ち直しましたが,それでも納得せず船級登録を拒否するという事件がありました。結局ロイド本社から上級の検査員を招んで検査してもらった結果,鋲接手には問題は無いと言うことで無事合格し駐在検査員は罷免されましたが,このため工期が7ヵ月も遅れ,船価80万円に対し26万円の損失を出したということです。日本の造船業の成長過程のひとコマがうかがえるエピソードと言えましょう。

それから10年後の明治41年には欧州航路の客船天洋丸,地洋丸,春洋丸13,454GTが建造されています(図4)。これらの船はパーソンスタービンを装備した速力20.6ノットの優秀船でした。昭和3年頃,既に活躍を終えた天洋丸が長崎港に赤鋳た姿で,少し傾いたまま係留されていて,私は幼稚園に通うのに毎日その傍を交通船で通ったので特に印象に残って

 

 

 

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