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です。そうした地域を結びつけるための交通と通信の整備です。3番目は難しいですが、集中投資を行うことによって連鎖的な地域開発、緻密的な地域開発を進めました。

この全国総合開発計画の主たる結果は次の通りです。

まず最初が新幹線の開発です。1964年に552キロの新幹線が開通しましたが、一般の鉄道はあまり注目されませんでした。この552キロメートルは、ハノイとダナンの間より少し短い距離です。高速道路は名神と東名で、1965年と69年にオープンしました。その当時の日本は非常にお金がなかった。そこでワールドバンクからのローンによって、特に名神高速道路はつくりました。そのローンを返し終わったのは、わずか10年ぐらい前です。そのほかに、15の大きな港湾が新しく作られたり、工業開発と一緒にドラスチックに改良されました。

このあとに続いた1969年の第2次の全国総合開発計画(図-3)があります。これは大きく三つの計画があります。

新幹線の開発と高速道路の開発と大規模工業開発計画です。六つから八つの大きな工業開発プロジェクトがありましたが、そのうち三つはあきらめ、残りの三つは非常に小さな計画として遂行されました。この図で、黒く塗った地域が大規模開発地域です。全くあきらめたのが秋田、津・松坂、周防灘です。苫小牧とむつと志布志、新潟は非常に小さい計画で実現しました。

その失敗の大きな理由は次の通りです。一つは環境破壊を心配する地域の住民の反対運動です。2番目は重化学工業の非常に深刻な不況です。それとは別に、公共投資の非効率な投資計画です。むつ小川原や秋田、志布志、周防は、ほとんど何も基盤のないところに計画され、大きなお金が必要とされました。これは計画の失敗です。しかし、高速道路と新幹線の開発によって、運輸部門の効率は非常に上がりました。大きな経済成長にもかかわらず、表-4に示すように交通部門への生産はどんどん下がっています。この間に動いている貨物の量は倍以上になっています。

時間がありませんので、タイのほうに移ります。

タイの成長を語るためには、外国企業の動向が非常に重要です。1971年のニクソンショックによって、日本の円の価値は急速に上がりました。日本円が高くなったので、日本企業はアジア各国にどんどん進出していきました。1973年にそのピークを迎えています。しかし、それ以降日本企業は、ヨーロッパやアメリカに進出していきました1985年9月の5カ国蔵相会議でのプラザ合意の後、さらに円が高くなりました。日本企業のアジア進出の目的は,安い労働力とか政治的安定だけではなく、消費市場としての非常に大きな潜在的可能性が大きな理由です。日本企業の進出はシンガポール、韓国、台湾、香港といったNIES諸国だけではなく、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシアといったASEAN諸国に向かいました。表―5は1970年から75年および85年から88年のピーク時の日本企業の直接投資で

 

 

 

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