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再演に際して二、三の断想

藤原新平

この上演は正確にいうと、再演でなく三演である。初演はあの阪神・淡路大震災10日後の27日、観客の居ない客席を前にして上演した。たった一回きりの舞台だったが、ほとんどの劇団員が被災していたこともあり、異様な緊張に満ちた舞台は忘れ難いものであった。関係者以外は見てないのだから幻の初演というわけだ。初日こそ予定より3日遅れたが、開演時間も定刻通り幕を開けた。実際は舞台稽古かもしれないが、心は初日だった。その後、劇団員は各自自宅の整理のため一旦劇場を離れるが、直ぐに2チームにわかれ、被災地へ激励活動にむかう。それからその後の5月に、改めて公演した。公式には初演になる。だから今回は公式では再演だが、実質的意味では再再演になる。

●当たり屋の父親役は、幻の初演では田村勝彦君であったが、外山誠二君に替わった。今回は最初に戻って田村勝彦君にお願いした。田村君はお客さんの前で演じてないから初演であり、大いに張り切っている。当たりやの母親役は、前回一、二回とも松下砂雅子さんであったが、今回は大橋芳枝さんにお願いした。田村君とどんな夫婦が出来上がるか楽しみである。しかし大橋さんは、何か一度出来上がっているみたいなどころに参入するのだから大変だ。

もちろん再演は初演のコピーではない。芝居の難しさは再演だろうが、初演であろうが変わらない。再演は再演で初演とは違う困難さと苦しさがある。初演の時には見えなかったものが見えてくるのだ。あれほど読んだつもりがなぜこの線を読みきれなかったのかと悔やむことが多く、芝居の奥行きの深さは限りない。役者が変われば思わない流れがうまれてくる。そういう流れを組み込みながら、しかし今回は初演を全否定するのではなくて、それぞれの登場人物をより深く形象することを心がけたい。たとえば街の人々は単なるマスではなくそれぞれの個性を持った人間であること、俳優としては登場人物はじぶんではないということの認識を持ちつつ、他の人々との関係に置いて成立することなどである。若い俳優たちがひとつの役を何回も繰り返して演じる機会はそうザラにはあることではないので、ピッコロの俳優たちにとってはまたとない好機ではないかと思う。再演というとそんなに稽古時間がいらないだろうと思う人もいるけれど、わたしは欲張るものだから、最初と同じ時間が必要になってしまうのだ。

●この作品は別役実の戯曲としてはかなり分かりやすくつくられている。作者が登場人物の一人(刑事・金内喜久夫)に読み取り方を説明させているからである。しかし、そのことは必ずしも我々は俳優や演出者にとって容易であると言うことにはならない。そうは問屋がおろさない、いや、作者がおろさないのである。これは一種の侵入劇である。当り屋一家が、彼らを排斥しようとする街の人たちの心の中に、いかに巧妙に侵入するかを喜劇たっぷりにみせてくれる。当り屋がわざと車にぶつかって、いかに高額の慰謝料をせしめるかは、彼らのぶつかる演技術に関わってる。同じように、街の人たちの心の中に侵入するのも、また彼らの演技によってであり、家族の連携プレーの成果によるのである。これは俳優にとって落とし穴である。陥穽である。罠である。迂闊にのれないのである。つまり俳優の技能を透かしみられる恐れがあるのだ。これは。作者の巧妙な陰謀とみることも出来ないわけではないのではないか。

●身構えるということ……(街の人々の立場からいえば)……

自分と違うものには、私たちはどうしても身構えてしまう。極端に言えば、自分以外のすべてに対してといっていいかもしれない。それは、おそらく生きてるものすべてに、上から与えられた本能ともいうべきではないかと思う。生きるための防衛本能なのだから誰でも持っている。微生物から高等動物にいたるまで、自分の住む場所に何かが現れたら、先ずそれは敵かもしれないと思うことは正当な反応である。文化とはそういうことが起こらないように決めたルールであり、システムである。にもかかわらず、長い間人間は失敗を繰り返してきた。

不幸にして今の世紀、時代になっても、ますます身構えなければ生きていけなくなってきている。文明が高度になればなるほど、様々な生きにくいことが多くなるとは皮肉なことである。目に見えないところ聞こえないところ触れられないところで、何が起こってるかわからないから、四六時中身構えてなければならないなんて、できるわけがないから、もはや無防備で生きることは夢のまた夢である。

●人間にとって本当のやさしさとはなんだろう。家族とは。

〈演主家〉

 

 

 

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