別役劇の謎の魅力/岩波剛
別役さんの戯曲・舞台は、ぼくにとっていぜん謎である。劇作100本記念(『金襴緞子の帯しめながら』)を迎えてなお謎でありつづけている。かのシェイクルピアでさえ、生涯に「37編の戯曲・ソネット・いくつかの詩」しか書かなかったのに、戯曲だけで100本を超えるとは壮観だ。それがすべて上演されてきたのは、劇作家として、集団や観客の要望にこたえつづけた、裏切らなかったということだろう。
そのほとんどの舞台を観る機会に恵まれた観客の一人として、ごく素朴な感想を言わせてもらえば-それを謎と呼ぶのだけれど-何か奇妙な事件、出来事に立ち会ってしまった感じ、あるいは夢の時間、それも白昼夢を観たような感触で、ささくれ、衝撃、不安、痛みや淋しさを抱えながら、劇場を出ると、ふっと青空を、またはよるの星座を見上げたくなる。それがなにか、なぜかという明確な答のないままに。
といっても、言うまでもなく、別役劇には難解な言葉はない。ごく平明なセリフである。構造も思いっきりシンプルで、初期作品をのぞいて、すべて一幕ものだ。言葉も、それをになう演技者の動きも明快であり、観終わって、確かな何か、劇でしか味わえないもの、喜びを感じ取るが、それは言語化しようのないものだ。しかも友人が感じとったものとくい違っている場合がしばしばである。高橋康也さんはこれを「コード(表現媒体・文体部分)の明晰さと、メッセージ(表現内容・全体)の多義性」と言っているが、別役劇は、明白な寓意や特別な劇思想だろう。
「輝く表面は、恐るべき深さなしにはありえない」ニーチェの言葉を思いだすけれど表層の向こうにあるものは観客の感受性、想像力に託される。それが魅力であり、実はこれが戦前から地つづきの新劇、リアリズム劇と別役劇とを隔てる点だと言える。
別役さんは旧満州で生まれ、その地で敗戦を迎え、引き揚げ船で佐世保へ。東京に落ちつくまで高知、静岡、長野をてんてんとした。学生時代が60年安保の騒乱、そして劇団自由舞台と呼べるだろうが、そこには敗戦から“政治の季節”にかけての個人的な体験が奥底に色濃く反映している。僕の接した限りでは無口で内向的な青年と映ったが、内には対人関係、挫折体験のたぎるような情念を抱えていただろう。その埋蔵量ははかりがたいが、初期の『象』のト書などにその片鱗を見ることはできる。「誰もが野心的であるとは限らないし、すべての敗残者が悲壮であるとは限らない」と。
しかし、『象』それにつづく『マッチうりの少女』をいう濃密さ、饒舌をぶきとする傑作を書いたあと、別役劇は変貌する。状況や心情の直な反映は戯曲から見事に消されてゆく。外部からは「政治の季節からの遁走」と映ったとしても、資質による知的作業とぼくはみたい。方法的にはベケット作品、なかんずく『ゴドーを待ちながら』との出会が契機となったことはたしかだ。簡素な空間、少数の登場人物、幼児言語、遊戯性などをみごとにわがものとしてゆく。電信柱が舞台にあらわれるのは『スパイものがたり』からだが、やがて『舞台には電信柱が一本。夕暮れ。風が吹いている』戸、最近の私の芝居は、たいていこのト書きではじまる」と作者本人が書く。スタイルが打ち立てられたのだ。
60年代は演劇期の地殻変動の季節でもあった。続出する実験劇、数多い劇作家の中で、別役さんと最も対照的だったのは、同じ反リアリズム三島(由紀夫)さんだ、とぼくは考える。絢爛たる修辞(文学性、朗誦性、論理性)、華やかな劇場性、型式の新奇を求めた末、彼は花火のように一瞬輝いて姿を消す。別役戯曲は、まさにその生反対を志向するかのごとくだった。肉声の届く小空間、最小限の小道具、そこに劇世界を成立させる幼児性とみまがう粘りのある台詞、別役語法で、静かに、たしかに、人間の関係の多様なドラマを産み出し、いまも創りつづけている。
近年、若手の劇を観ていて、アッ、あれは別役劇の……と感じることが少なくない。スタイルの確立、それは誰もが認める偉業だが、驚くのは100本記念まで、基本的にこのスタイルを変えることなく、貫き通していることだ。パターンの繰り返しが豊かさを創るという逆説。『移動』『マザーマザーマザー』『壊れた風景』『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』『はる なつ あき ふゆ』そして『金襴緞子の帯しめながら』。戸、そのたびに今度こそ別役劇は変わるぞ、変わるだろうと思わせながら…。
100本を超えてなお謎でありつづける、その魅力。図式だ、パターンだという批評を風のように受け流して、自らのスタイル、劇世界を貫きつづける持続力に拍手を送りたい。101作目の戯曲はピッコロ劇団の『さらっていってよピーターパン』だと別役さんに聞いた。楽しみである。
<演劇評論家>