「FORUM Em.Bridge'97」のねらい
一九九七年は我々がいま考えなければならないことは何かを反省させられる年となった。なかでも最も象徴的な出来事は多くの大企業における総会屋事件であった。何故なら、この事件を通じて、日本の社会がいかにディベート(議論)不在の社会であったかということを世界に示してしまったからである。そして、このディベート不在という事実の奥に、現代日本における確固たる個の存在の希薄な様子が伺える。
福沢諭吉が『文明論之概略』を通じて「智には私智と公智とがある。 一人ひとりの頭の中の智すなわち私智については日本は他の文明国に比してひけをとらないが、その私智を社会全体にひろげて社会全体の智、すなわち公智にすることを全く欠いている。日本が文明国になるためには公智を持つようにならなければならない。」と喝破したのは一世紀以上昔のことである。
公智を共有するための重要な手段のひとつはディベートであり、そのディベートのためには、まず「一人ひとりの個人が何事についても明確な考えを持ち、それを的確に他人に伝達することが必要である。」として、そのために三田山上に演説館を開設した福沢諭吉の精神はついにその後開花することなく、教育の場でもディベートの重要性は忘れられてきた。そして今日に至っているのが日本である。
教育の目標として、「個」の形成がいかに重要であるかを、今回のフォーラムの基調講演者であるProf. Ian Nishは一九六三年に発表されたロビンス委員会の報告書によって紹介している。「個」の確立のために、自己表現の能力の開発が、教育においていかに重要かをこの報告は力説している。これにくらべて、戦後の日本は一方においては独創力の涵養を言いながら、依然としてディベート能力の開発を忘れてきた。日本の教育は大きな忘れ物をしているといわねばならない。
「個」の確立、それは現代のわれわれ自身にとって最も大切なものである筈である。もう一人の基調講演者である河合隼雄教授も「日本の現代人は個人主義を取り入れようとしつつ、このことを不問にしている」と指摘している。
そして、また「個」の確立とは、フィランソロピー実践の基本であることも忘れてはならない。フィランソロピーの実践にあたっては、 一人ひとりが社会の構成員、すなわち市民としての自覚と責任感を持ち、社会に対する己の考えをしっかりと持つことが必要である。ところが、残念なことに、こうした認識が社会の隅々に行きわたっているとは言い難いのが現状である。フィランソロピーを市民活動という人がいる。一方、市民とは何かと首をかしげる人もいる。なるほど、これではディベートの芽が育つ筈がないであろう。
新しい世紀、二一世紀を目前にひかえて日本に真のフィランソロピーが育ってゆくために、まず、いま努めるべきは真の「個」に開眼することであると信ずるものである。
FORUM Em.Bridge'97代表世話人
林雄二郎