い。まず三枚さんのコメントに関してですが、「日本人の魂を捨てるかどうか」という問いそのものが興味深いですね。日本人の世界観、考え方、行動はあまりにも西洋とは違うので、いくら日本人が努力して魂を捨てようとしても、少なくとも数十年はできないでしょう。これはいい悪いということではなく、ただ根本的に違うということです。
二点目は、日本の海外におけるフィランソロピー、とくに七〇年代頃からのものは大変評価されているということ。この理由は二つあると思います。一つは、政府や民間企業から外国の大学や研究機関に、いろいろな形で資金が行っていますね。国内の大学に対する寄付額以上に出している。これは基本的に日本に関する誤解や批判を解消するという目的があったのではないかと思います。二つ目には、アメリカからの「外圧」があります。とくに一九八〇年代にアメリカに進出した日本企業が金儲けばかりして、社会、コミュニティーには貢献しないという批判が高まりました。そこで、経団連やアメリカに行った日本企業が財団をつくり、その活動を通してアメリカからのプレッシャーを回避しようとした。海外と国内における日本のフィランソロピー活動がなぜこれだけ違うか、というのは非常におもしろい研究テーマではないでしょうか。
最後に、フィランソロピーは海外では過去三〇年かなり活発に展開されてきたけれども、日本国内では相対的に育っていないのはなぜでしょうか。
まずは宗教の背景、個の確立、市民参加の伝統といった文化的な側面があげられます。二番目は制度、システムの問題。すなわち税制、あるいはお上にすべてを任せるという考えですね。三番目としては、日本政府の政策に一致しない活動が育ち難い土壌があるようです。海外における日本のフィランソロピーは、日本政府の日本企業支援という政策を促進していることが多く、かなり活発に活動している。日本国内でのフィランソロピー促進のためには、日本のマスコミと外圧が果たせる役割があるのではないでしょうか。
山岡 フィランソロピーが「日本的」であることに固執する必要は毛頭ないでしょう。「日本型」を目指すと、どうも世界の動きの中で変な感じになってくる。和魂は捨てる覚悟でいいと思っていますが、和魂がそもそもあったのかも疑問です。薩摩魂や水戸魂はあったかもしれませんが。同じように、フランス魂とイギリス魂はあるかもしれないが、「洋魂」といえるものがあるかというと、ない。それなら「世界魂」で十分ですね。それぞれの国をベースに、世界の人類のためにという意味で。
それから、そろそろ日本も市民社会に移行する転換期に入り始めたかなという実感があります。その市民社会に至る前の日本社会は、世間社会と呼んだらいいのではないでしょうか。「タコつぼ」の中に入っていると楽なんだけど、その中はよく見えないし入りにくい。そういうタコつぼがたくさんある社会ということです。タコつぼを「イエ」と置きかえれば大体当たっているでしょう。
日本型世間社会から地球型市民社会への移行は、 一九八五年のプラザ合意ぐらいから来ているようです。特に世界市場に進出した自動車などの輸出産業は、世間型から市民社会型への経営に移っていきました。
それに対し、市民社会型に移行し損なった企業が今行き詰まり、世界から糾弾を受けている。金融、ディベロッパー、建設業しかり。ある銀行の常務の「世間をお騒がせしたことは申しわけない」という言葉が象徴的です。