むことです。西欧がうさんくさく思うイスラム思想の中には、「草の根」と「だんな」、両方のフィランソロピーをやるのが人間の義務だいう考えがあります。人間として行わねばならないことを表すワージプという言葉をよく使います。つまり、人間として生まれたら、横の人を助けるのは義務である。「人間としての義務を果たさない恥」というものがこれからの日本社会に存在するようになればいいなと思います。
「日本型」はありうるか
三浦 先ほど、伝統が失われつつあるというお話が出ました。昔よかったことが今失われているということは、それを選ばなかった、伝えなかったということです。別の見方をすると、大人が大人の役割というものをきちんと果たしてこなかったのではないか。伝えるという仕事、メッセンジャーという仕事を大人がしていない。これは非常に大きな問題だと思います。
そのためにどういうことが起こっているかというと、「イマジネーションの欠落」があげられます。目の前に情けを必要としている人や状況があるとき、その者に対しての情けというものが動き出さないというのは、それが我が事としてとらえられないということです。プライバシーとパブリックの間を結ぶ橋がない。
日本の教育の発想では、アイデンティティーは発生しないと思います。日本語の「教える」を英語に置きかえると、ティーチかショーといった意味しかない。「教える」の語源は「押さえる」。教えるという漢字の左側は子供の上に土が乗っている。重いもので個を抑えるわけです。
一方、英語の「エデュケート」という言葉は「イデュース」と語源が同じだと思うのですが、そこではその人らしさが尊重され、そこから他者への理解が生まれ、個の集合体としての社会と自分の関係が生まれてくる。そこにはプライバシーとパブリックの間のかけ橋となるソシオロジカル・イマジネーションが十分育ってくる。
日本は子供社会のルールで動いているという気がします。学校では、自分のことは自分でやりなさいということを教える。ところか相互に依存し合い、助けあっていくというフィフティー・フィフティーの立場が大人社会のルールであるわけですね。ところがそれは学校では全然教えないわけです。一部では、日本で昔から美徳とされている滅私奉公や犠牲の精神がフィランソロピーであるというふうに考えられています。けれどもそれでは長続きはしない。フィフティー・フィソティーのキブ・アンド・テイクというものがつくられなければなりません。
三枝 日本人が国際的基準というものに準じる必要はないだろうと私は思います。共通の分母に関しては世界は同じようになっていきますが、分子という部分では変わっていける。情緒で考える日本人、この変わった民族がいるということを世界に言い続けることが今必要です。新しい哲学をもう一つ打ち立てなければいけないときに今来ているような気がいたします。
フクシマ 私は常に外から日本を見ている人間ですが、その印象を三点ほど申し上げた