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の考え方を既に持っている人たちがいるのです。

損得で動く仕掛けが必要だという話もありましたが、仕掛けが制度として先行すると、それをやらない人は変だという風潮ができる。そこで仕方がないからやるとなれば、今までの制度と同じように必ず硬直してしまうと思います。

市村 和魂洋才に関してですが、何に対して個を打ち立てるべきか、ということを考えたい。先日テレビで見たのですが、ある自殺した政治家のお母さんが「みんなやっていることじゃないか」ということを言ったんです。果たして、「みんながやっている」ということで許されるかどうか。やはりこれからは、社会からの制裁を恐れずにそれに対して個を打ち立てるべきではないでしょうか。

アメリカの場合は、よき個人主義者はよきナショナリストですから、国家と個が意外と幸福な関係を保ってきた。日本は戦後になったとき、家族制度に代わるものとして個が打ち立てられたかというと、それは結局不可能でした。家族制度が企業や役所に代わっただけで、また同じような社会システムができてしまったのではないかと思うのです。もう一つ特徴的に思ったのは、オリンピック選手のインタビューの受け答えが昔と全く変わったということです。昔は国の期待とプレッシャーを一身に背負い、日の丸を上げるために頑張りますと言った。でも今は全く違う。ナショナリズムはもう人々を支えないということが、若い世代に表れている。これからは、フィランソロピーをやっているコミュニティー、そこで活動する人たちが、逆に個を支えていかざるを得ない。だから、これから新しい形で個人というものが生まれるのではないか。

太田 フィランソロピーやボランティアというのは、自分の意思で、自分の満足のためにやるもの、それに尽きるのではないかと思っています。日本では、見せびらかし、あるいはよそさまがやっているというようなことで活動しておられる方が多いのではないでしょうか。何年か前、募金の日に議会議場で皆がつけるから羽根をつけてくださいと言われたことがあります。私は募金はするが、それは自分が満足するためにやるのであって、羽根をつけるのは絶対嫌だと言ったことがあります。先ほど、個を支えるものとして国の役割は終わったという議論が出ましたけれども、私はやはり国というのはあり続けると思います。国に対して期待できなくなっている若い人が増えているとしたら、政治家を筆頭としたわれわれ大人の責任なのではないか。強い個人というものを私たちが若い人たちに示していかなければいけないと考えています。

片倉 自己満足だけではフィランソロピーは長続きしないと思います。むしろ、赤い羽根をみんながつける運動をしたほうがいいのではないでしょうか。フィランソロピーを、「だんなフィランソロピー」のようなものと、隣の人が困っているときにどうするかという「草の根フィランソロピー」に分けて考えてみたらどうでしょう。前者は文化人類学的にいうと「ハレ」のもの、草の根のほうはもっと生活に根づいた日常的「ケ」のようなものです。この両方を合わせて、活動していることを示す羽根のようなものをつくるのもひとつのアイディアでしょう。

和魂の話が出ましたが、日本人の魂は昔と同じではない。けれども、恥という概念は、今も日本人の中に潜んでいるのです。隣の人が悲鳴を上げているのに駆けつけないようでは恥ずかしいと感ずる心と行動する習慣を育

 

 

 

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