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きました。だんな衆という気前のいい社会的な役割を果たす機能が、日本の社会からどうしてなくなったのか、そこを検証する必要があると思います。

河合 理由のひとつに、戦後のものすごい均等化の風潮のなかで、だんなをつくりたくないという意思があったことがあげられます。みんな一緒、という意識ですね。もう一つは、だんなの家というのは何代も続くところに重みがついてきますが、日本は相続税が高いので、だんなの家は続きにくいのです。

香西 同じような意味で井戸塀という言葉があります。昔、井戸と塀を持っていた人は大変なお金持ちでした。そういうものを潰してしまった平等社会では、だんなはみんな企業へ行くわけです。

以前アメリカの学者と会ったとき、京都大学で六〇億集めたという話をしたら、けたが違うんじゃないかと言われました。彼いわく、ハーバードは二四〇〇億集めると。われわれは驚いて、それは企業回りが大変だったろうと言ったら、 いや、企業も回ったけれども、個人からたくさん来るという返事でした。アメリカはやはり個人のお金持ちがいるということなんですね。

河合 しかし、アメリカは貧富の差がひどい。その点、貧富の差が少ない日本のほうが望ましいとも言えるので、これは非常に難しい問題ですね。

三枝 フィランソロピーもそうですけれども、日本にはザカードの精神(慈善の精神に基づき、イスラム法に定められた救貧税)といった宗教的な考え方が極めて少なかったですね。例えば、日本には自分で発見したことは家元制度で続けて、お金を払わなければ見せないというシステムが長い間あった。一方西洋人は、自分が発明したものを公開しないと天国に行けないと思っている。

また、「和魂洋才」という言葉を考えると、二一世紀には和魂がなくり、日本人は「洋魂洋才」になる可能性を持っているのではないか。それを選ぶのか選ばないのかということが、今日本人にとって一番大きな決め手だと思います。我々は洋風の格好をしながら魂だけは売らないつもりでいたんですが、どうも魂も売らざるを得なくなってきたのではないか。売ると決めたときには日本人ではなくなるぞ、ということを含めて考えるときが来たと思います。

日本人にとっては、一晩酒でも飲まなきゃ話がわからない、というような情でつながっていく連携が大変大事な要素だった。これを捨てろということが本当に正しいのか。日本人の魂というか癖のようなものは、世界に逆に訴えていくべきことであって、グローバルスタンダードに合わせるとなると、我を失ってしまうことになるのではないか。僕は世界の基準に我々が合わせる必要は絶対ないと思いますが、それをどう訴えていけるかという方法論が非常に難しいと思っています。

河合 三枝さんが言われたことがフィランソロピーにすごく関係しているように思います。原語のまま使っているということが、日本人の考えにもともとなかったことをやろうとしている、ということを表しているのではないでしょうか。

日本人にとっては、個人という考え方よりも、とにかく内と外という区別が大事だった。ところがフィランソロピーというのは、「内

 

 

 

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