数十回ほどシリコンバレーと日本の間を往復していますが、あちらで産業が次々と生まれてくるダイナミズムは、白己確立、個性をシステム的にきちっと教育するところからきていると思います。アントレプレナーシップ精神を、きっちり再生産できる形で教育している。それが、アメリカの産業のダイナミズムを日本の一〇〇倍ぐらい力強くしているのではないかと感じます。総体的に競争力が落ちている日本は、二一世紀にかけてそうした自己確立、個性を引き出して産業をつくるメカニズムを大急ぎで生み出すことをやっていかなければいけないと思います。
学校故育における地域・親の役割
山田 今までは主に大学教育に関するご発言が多いと思いますが、私はむしろ小学校について考える必要があると思います。われわれは、家庭・地域・学校という、三つの土壌の中で育ちました。それが今は少子化が顕著になり、地域社会もほとんどなくなったから、子供同士の遊び方もわからなくなっている。そういうしわ寄せが全部、先生のところにくるのです。地域の大人や、少し世の中の風に当たった人が、小学校に入っていくべきなのではないでしょうか。
外国では、日本の小学校の評価は比較的高いです。成績もいいし、偏差値も高いからだと思います。しかし、子供を連れてロンドンとボストンに行き、日本の学校と比較してわかったのは、イギリスでもアメリカでも落ちこぼれというのはいないということです。初めからみんな底辺にいて、上に上がっていく人をみんなで褒めて、どんどん盛り立てていこうというシステムですから。日本は全部一緒にすくい上げようとするものだから、何人か落ちて問題が起きる。
今、私は地域の小学校で活動していますが、先生たちが気の毒なくらい行政機構の末端にいる現実を目の当たりにします。先生たちはほとんど自分の判断が認められず、教頭先生が言ったことをやらなくてはいけない。ここからはディベートとか解がいくつもあるような教育は、まず生まれてこないわけです。
世古 教育の問題でいえは、家庭の役割というのがすごく大きいと思います。日本の一般的家庭では、父親が母親に教育を任せ、コメントはするけれども現場にいない、という状況で、母親たちがほぼ一律に目標を設定し、一つの頂点を目指して子供を教育している。私はまちづくりなどで地域に関わることが多いのですが、農村や商店街でお母さんたちの話を聞いても、自分の家の職業を次世代に継がすということはほとんどなくて、都市でも過疎の町でも、一つの頂点を目指した教育システムに子供を入れることを目指してしまうようです。
そこでは、河合先生がおっしゃった「何を大切にして、何を支えにしていくか」というイメージがますます希薄になり、一元化しているといえます。どんな社会を目指すのか、という私たち自身のイメージも希薄になっていることと重なっているのではないでしょうか。従来から言われてきた偏差値の問題や、父親の参加を促すというレベルだけではなく、家族と教育の問題として考えていくことが必要だと思っています。
〈以上第一日日の討議より〉