日本財団 図書館


のそれは非常に違うと感じました。ロンドンでは、まず自分の主張やコンセプトをはっきりさせます。それがなければ作品はつくれないという考えから、主張に基づいて技術を考え、作品化させる教育をします。一方、日本の場合はまず技術や素材について教えます。ほとんどの大学は、三回生以上になって初めて自分の主張を表現することを教える。そのため、日本では自己のオリジナリティーを表現する教育が遅れているのではないかという考え方ができなくもありません。

ところがそこで興味深いのは、向こうの大学を訪問し、三〇人のクラスを見るとそれぞれ強いオリジナリティーがある。数校の大学を訪ね、三〇〇人の学生を見てもそれを感じる。ところが、それが三〇〇〇人、三万人の単位となると、類型が見えてきてしまいます。第一線の作家がオリジナリティーを競う展覧会では、既に八〇年代からマンネリ化が見えてきているのです。 一方、個性を重視する教育が遅れていると思える日本から、誰も考えたことがないような陶器や染色作品が出てきて、それが高く評価されています。自己の主張や、自分のアイディアの構築を最優先したり絶対視することなく、自然の摂理に耳を傾けるという具体的な制作方法における可能性が秘められているのだと考えています。

 

個性を伸ばす教育システムとは

 

早瀬 私の娘が中学に入学した春、はげをつくりました。なぜか。「変や」といじめられていたのです。変だと言う側は変ではなく普通」で、いじめられている子をカバーするとその子も変になる、といういじめの構造があるわけです。しかし、本当はみんな変で、「普通」という人はいないのではないですか。よく「違いを認めよう」などと言いますが、それも「自分は普通だけれども、変わった個性の人も認めよう」というニュアンスを含む場合が多いと思います。そうではなく、もう少し教育の中で、自分はこういうふうに変で、あの人はこういうふうに変だという幅が認められていくようなプログラムが必要なのではないでしょうか。

もう一つは、例えば高校の入学試験ですが、文部省は四年前、内申書に中学時代のボランティア活動体験が評価される仕組みを打ち出しました。これは一見筋が通っているように見えます。でも、ボランティア活動をしている子を褒めることは、活動しない子を罰していることになるのです。内申書で評価されない子は相対的にマイナスになるからです。このように、一つの基準に全員を持っていこうという教育はよくないのではないでしょうか。

香西 私も教師なのですが、学校教育法ができてから学校では現代史のような危険なことは教えられなくなりました。教育法の第一条は民主主義教育をうたっており、誰も反対できないわけですけれども、第二条は教育の国家独占主義を示しています。学校法人でなければ教育してはいけない、というニュアンスです。余りにも国家が顔を出し過ぎたがゆえに、現場で逆に価値判断ができなくなっているのではないでしょうか。つまり、公的なインスティテューショナライゼーションが行き過ぎると、多様な価値観がなかなか生きてこないということを考えなければならないでしょう。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION