「個」の捉え方―東洋における個
季 西洋の個人主義、individualismを東洋に導入する場合に、一つの見過ごされてきた特徴があります。西洋では個人の権利を強調している一方、「罪意識」が存在するということです。それでバランスが取れているわけです。
しかし、東洋の社会では個人に罪意識がありません。そこへ伝統的道徳人格論、personalismと全く違った次元での個人主義が導入されると、従来の家族主義的な制限がなくなっていることもあいまって、いろいろな問題が出てきているようです。これらの問題を抜きに、東洋における個人主義の問題は語れないのではないでしょうか。
茂木 一般的に日本人は「個」についての意識が不十分だと言われていますが、戦後は「個」がいく分確立してきたということはいえると思います。ただ私は最近、それが本当の意味の「個」ではないのでは、という疑問を抱いています。日本人の中に、非常にゆがめられた、バランスを失した「個のようなもの」が、出てきているような気がするのです。
戦前の、全体のために個が犠牲になるのは当然だという価値観が昭和二〇年の八月を境に全否定され、振り子の振れ過ぎという現象が起きてしまったのではないでしょうか。個の権利を強調する余り、自分の個と他人の個との関係や、自分と個の集合である全体との関係が全くなおざりにされているのではないか。個の自由に伴う規律や責任、義務といった、本来守らなければならないものがどこかに行ってしまっているような気がしてなりません。
最近は凶悪な犯罪が起きていますが、加害者の人権ばかりが話題になっています。被害者の人権、将来被害を受けるかもしれない人の人権への配慮が本当にあるのだろうか。また、公共施設の建設の際、個人の利益と公共の利害との調整について真剣な議論が行われているのだろうか。どうもそれらがなされていないと思うのです。日本人の基本的なメンタリティーに、何かが強調されると、皆がそちらへ行ってしまう付和雷同的なものがあるのかもしれない。李さんがおっしゃった、罪の意識、信仰心がない、ということもあるのでしょう。
福本 芸術というものは自己の作品を世間に発表することなので、自己とは、世間とは何かということを常に考えなければいけません。ナスカの地上絵は何のために描いたのかという論議がありますね。上空からしか見えない絵なので、地上絵は宇宙人へのメッセージだなどという論議がいまだに根強くありますが、それは、見る者がいなければ創らないという前提が厳然としてあることを示しています。これは非常にヨーロッパ的な考え方です。
河合先生の講演のなかに、自分と他者とを区別するなというインドの昔話がありましたが、自己から他者へ伝えるということを考えない創造もあるのではないでしょうか。たとえば、城戸幡太郎が昭和一〇年に『国語表現学』の中で、日本語に「月が見ゆ」、「鐘が間こゆ」という自動詞があると述べています。叙述における自己度外視、すなわち観察における主観の排除という認識の方法が、日本人の世界観であるという。この世界観を用いると、見る者がなくてもつくるというナスカの地上絵の考えが成り立つと思います。
また、オリジナリティー、あるいは個の表現ということを教える場合に非常に興味深い問題があります。一昨年ロンドンの大学を訪れたとき、日本の大学の工芸教育とロンドン