伝されたものだった。
英国や欧州でも、教育は戦後の復興と調整を推進するにあたって重要なファクターとなった。しかし、そのやり方は日本とは違っていた。フランスの制度は求心的かつ能力主義的で、大学進学のための厳しい学力試験に基づくものだった。フランスの教育相が時計を見ながら、全国のすべての中等学校の生徒がいまこの時刻になにを勉強しているかを具体的に言うことができる、と自慢したという話も伝わっている。このような画一性に教育的な意義があるとは思わない。政治家はこうした中央集権化になんらかの政治的、財政的な利点を見いだすかもしれないが、生徒や学生の立場からすれば、魂を破壊するような構想である。一八七〇年代に日本がモデルの一つとして採用する可能性もあった大陸フランスの政策(ナポレオン法典)が極めて中央集権的で指令的な体系だったことが思い出される。
英国にも教育振興基金に依存する私立学校があってエリート主義的要素も強いが、子供たちの大多数は国家の学校制度に所属している。前者の魅力は、過去においてオックスフォードやケンブリッジ大学に入学するのが容易だったということだ。フランスの中央集権的制度とは違って、英国の教育構造は連邦的であり、特にスコットランド、そしてウェールズや北アイルランドにも大きな自治権が与えられている。
英国の大学に関しては、重要な政府委員会が設置された。高等教育に関するロビンズ委員会がそれで、一九六三年に報告書を出した。その結論のなかで委員会は教育の基本的機能について次のように述べている。
「共通の文化ならびに市民権の共通基準を伝えることである。これはすべての個性を共通の型に押し込むことを意味しない。……家族と協力して、健全な社会を支えている文化的背景と社会的習慣を提供してやることは、学校における教育の場合と同様、高等教育の妥当な機能である」
「既存の機関は、その本質的機能を守るのに必要なものを除いて、事前に決められた制限を受けることなく、自由に実験することができなければならない。そのような実験が望ましいことを経験が示しているならば、新しい形態の機関を実験する自由がなければならない。……このような条件は、英国の伝統が常に知的および精神的健全さの主たる必須条件の一つだとみなしてきた個人および機関の創意のための余地と矛盾しないものでなければならない」
委員会は、人格の形成と教化洗練された人間の創造という高等教育の二重目的の重要性を強調した。委員会は学生の自己表現、明晰さと思慮深さ、自分自身の見解をもつことの必要性に焦点を当てた。教育制度にスタッフ、教育機関、学生の個性を守るための保障条項を組み込むよう勧告したのである。
私は一九六二年にロンドン・スクール・オブ・エコノミックスにポストを得たが、その際、学生を促してそれぞれの個性を伸ばすよう仕向けることによって、この報告に従うよう勧告された。授業は小さな討議グループで行われ、書いたものについては一対一で検討し合うことになった。学生との社交的な接触も奨励された。私が前に勤めていた大学では、五〇〜一〇〇人の学生を対象にしたマス講義で授業が行われていた。小人数のグループの教師となって、学生に批判を促すのは決して容易なことではなかった。欧州全土で若者の抗議がみられた一九六〇年代末の数年間は特にそうだった。
ロビンズ報告については、その後の(大学ではなく)学校教育に関する委員会で見直しが行われた。主宰したサー・ロン・ディアリングの任務は、一六〜一九歳の年齢層の学習水準を試験結果に照らして強化・統合・改善することだった。九七年に出された報告は、教育理念よりも国家の予算支出、人格の開発よりも学校の成績に関心を示すものだった。
日本も、六〇年代末に教育制度の見直しを迫られた。東京大学その他でキャンパスや建物が学生に占拠されたためである。赤軍派の過激な行動は規律強化の必要を物語っていた。学校には多くの欠陥が目立った(いじめ、不登校、暴力など)。それは「出る杭は打たれる」という極めて日本的な現象の一側面であり、(例えば芸術や音楽の才能のある子供が狙われた。こうして徳育への復帰を求める声が再び高まり、教科書の検閲が強化されるとともに、政府の介入増大が一般的な風潮になった。
日本の教育政策に批判的な人々は、創造性や多様性をもっと重視するよう要求した。東京大学の堀尾輝之教授は次のように書いている。
「学生も教師も、完全に抑圧的なカリキュラムによって活力を圧殺されている。いま子供たちはその個性を伸ばす機会を組織的に奪われている。自由な人間として日本の市民の能力を解放し、涵養する機会を奪われているのだ」
改革論者たちの主張は、画一性と硬直した中央集権的管理は創意を潰し、創造性を減退させる、ということである。