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由民権運動のような「野党」の役目になった。保守的な政府の政策は、社会主義者や無政府主義者に動員された不満分子の挑戦を受けるようになった。これが現状維持を危うくし、混乱をもたらしたことは疑いない。一八九二年にハーバード・スペンサーはある日本人への手紙で「あなた方はあまりにも大きな自由に起因する諸悪に悩まされている」と述べたが、この判断は明治政府官僚の耳には快く響いた。新しい憲法の下で生まれた官僚制度は、個人主義を普及させようとするあらゆる動きを抑制しがちだった。

日本の個人主義の教義は、大正デモクラシーの下で再び前面に出てきたが、それに反対する声は一九二〇年代末からますます騒々しくなった。二〇世紀が進むにつれて日本政府が個人主義をますます抑制しようとしたのはなぜだろうか。思うに、一つの基本的な理由は、日本の近代史が闘争と緊張の歴史だったことだろう。まず、日本には外国勢力に侵略されるかもしれないという不安があった。そして中国、ロシア、ドイツと戦争したことから、耐乏措置を強いられた。この間つねに、農民たちは自分たちが不当に扱われていると感じていた。彼らは日本の工業の成長に資金を提供しているのは自分たちの地租だと主張していたからである。世界不況が始まると、農民たちは、政党が都市や工業や輸出貿易のために農村地域を犠牲にしていると非難した。軍は貧しい農民たちの訴えを支持した。一九三〇年代を通じて続いた戦時状況のほかに、国内情勢の混乱もみられ、政治家が特に陸軍や海軍の軍人によって暗殺される事態になった。要するに、分裂した社会に緊張が漲っていたのである。その結果、国家による弾圧が行われ、警察が民衆の抗議活動を抑えつけ、官僚の権力が拡大し、国家によって個が押し潰されることになった。

個人主義的な考え方に対する反対は、 一九三七年に文部省が発行した『国体の本義』に最も強烈に表れている。それは個がすべてではないと強調し、国民に要求されるのは国家(天皇制)、地域社会、家族に対する忠誠であると主張した。明言しているわけではなかったが、この教義は会社や労働観にも当てはまると言ってもよかった。よくいわれることだが、『国体の本義』は、議会制度を備え識字率も高い国を逆戻りさせる教義であった。日本語版と英語版で読み返してみて、これが人を惑わし引き付けるような論法で主張を展開していることが分かった。

こうして、規律、忠誠、社会における法と秩序が求められるようになった。これは全国規模では大政翼賛会の結成によって、地域段階では隣組によって最も効果的に確保された。どちらも内務省によって有効に管理され、戦時中、忠誠心を確保し、士気を高める手段になった。

 

戦前の教育

一八九〇年一〇月三〇日発布の教育勅語は、日本のすべての臣民が守るべき儒教の徳目を示した。強調されたのは忠と孝だった。これは義務教育体系に組み込まれた。数十年にわたる戦争の時代だったため、これは歴代政府が修身(道徳教育)の重視を通じて強調しようとした国家主義とうまく合致した。中央集権的な文部省が定めた厳格な指針の下で、教育勅語は学習が義務付けられ、ある意味では崇拝された。日本の教育は、教育とは国家機関への無条件の忠誠心を培い、標準教科書を通じて学習の進歩を図りながら、国家の目的に奉仕すべきものだという考え方に基づいている。

ほんの少しではあるが、私もこれを直接体験した。日本語を習った時のわれわれの学習方法は、小学校の児童の普通の読本を読むことだった。そこに基調として説かれているのは、個の奨励というよりも、自己犠牲だった。これは「上からの啓蒙」の産物であり、教育勅語が続いた一九四五年まで効力をもっていた。

大正時代には、高等教育の先端的分野は大きな進展を遂げていた。日本の科学は世界でも高く評価されるようになった。大学や高等学校は定員枠いっぱいになり、入学試験が激しさを増した。国家の権威(国家主義)と知的自由(リベラリズム/民主主義)の戦いがみられたのはこの水準であった。だが、美濃部達吉の事件のようなものを除けば、それが一般の人々の注意をひくことはほとんどなかった。大体において、伝統や社会的圧力に対する知識人の抵抗はほとんどなく、近代的なリベラル教育に期待されるような、個人の人格や意識を開発しようとする試みもほとんどなされなかった。

 

戦後

敗戦に打ちひしがれ変革を待ち望んでいた人々に、連合国の日本占領と米軍事政府は否も応もなく外国の物の考え方をもたらした。当然ながら、戦後の考え方は、官僚支配ともいうべき戦前の政府のや

 

 

 

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