写真・文 恵良好敏
“うさざ追いしかの山、こぶな釣りしかの川”(高野辰之作詞・唱歌「故郷」より)私たちの里山である「市野谷(いちのや)の森」は、関東平野のどこにでも見られる国木田独歩が“むさしの”と言った里山です。縄文海進時(約6000年前)には、海が埼玉県の栗橋辺りまで進出していて市野谷の低地の所は海で、台地が掌のように入り組んだ海岸線をつくり、市野谷の周辺は海の幸、山の幸に恵まれた非常に暮らしやすい所だったようです。
この市野谷の森は、江戸時代は幕府の軍用馬放牧場で小金牧と呼ばれる灌木の交じる草原でした。江戸後期に新田開発が行なわれ、谷津の部分は水田に、台地の部分にはクヌギやコナラが植えられました。クヌギやコナラは薪や炭として燃料となり、林床の草木は刈り敷きといわれる田や畑の肥料となりました。この時代には太陽が育てた樹木や草とこれらの植物がつくった土と森が涵養した水を利用する、廃棄物の出ない生活のシステムを確立していました。
私たちは、便利さを追求するあまり科学の進歩を人間の進歩と見誤っていましたが、今の便利さのみを追求した科学では、人も野生生物もいずれ生きられなくなることが分かってきました。ながく続いてきた里山を中心に据えたエネルギーの完結する循環型の生き方こそ、これから人と野生生物が長く持続のできる世界を可能にする方向であるように思えてきました。
この認識のもとに私たちは市野谷の森の保護を行政と一緒に考え、私たちの認識を理解してもらえるよう努力してきました。対立でない本当の民主主義のテーブルを行政との間につくり、本当の市民参加とは何かを自らにも問うてきました。市野谷の森を自然保護の運動からはっきりと〈まちづくり〉の中に反映させるよう、森を核にする緑のまちづくりも合わせて提案しています。この7月、市野谷の森の保全に関する調査の中で千葉県は、「新しいまちづくりの象徴となる緑、まちの環境の質を高める緑」として位置付け、そして、動植物の棲息地保護を目的とする〈都市林〉としての公園として保全利用していくと言っています。この結果を導きだせたのは、行改とともに考え、何がベストかを一緒に議論できたからだと思っています。
私たちは、市野谷の森という里山の保護を通して、何が人を動かせるのかを学びました。人と人の間にある共通の自然体験は、どこかで同じ方向に動きだせる力をもっていて、諦めずに、互いに持つ共通の体験に訴えれば、共通にある正しさはいつかは動き始めます。それが、自然保護の強みです。
(えら・よしとし/流山自然観察の森を実現させる会)