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アメリカの多くの街には、一つの高校があって、その街に先生も住んでいる。だから街へ出るとレストラン、ゲームセンター、教会、その他でしばしば生徒と教師が顔を合せる。このような場合には、今日はの挨拶だけであとは、全く無関心だ。街のレストランで高校教師が恋人と一緒に食事に来ているのと、よく出会うと、生徒がいう。互いに学校を離れれば、自分の私生活は自由ですから、お互いに干渉しないのである。

日本では通学途上の生徒の行動に、学校側は保護者と同じか、それ以上の責任を負わさせている。スカートの長さ、鞄の持ち方など、不思議に「学校の先生は何をしているのか」と避難の的になるが、「親の顔を見たいもんだ」という声は余り聞かれない。

親自身も「しつけ」は学校でしっかりやって貰いたい、という。アメリカ人から見れば親の権利の放棄で、学校に対する依存で根本的に間違った考えをしている。「しつけ」は家庭でしっかりするもので、学校に何んでもかんでも依存するのは間違っている。

アルバイトを娘がするかしないかは、学校の教師でなく、保護者の責任範囲だろう。だいいち、教師は放課後の生徒の行動を把握できるものではない。保護者のほうが遥かにコントロールできる立場にある。

保護者責任か教師責任かが、あいまいにされたまま、教育委員会がアルバイトの原則禁止を定めたところが多い。例外的に許可を受けるというタテマエをとるに至った。こうしたレールを敷いたことで、何かの事件が起きたとき、教師は「禁止」していたのに、勝手にやったといい逃れできるようになっている。

「いい逃れ」といったが、このいい逃れの根本的な原因は、保護者や社会一般の責任放棄にある。確かに、教師側は原則禁止にしておけば、いい逃れできるものの、そのいい逃れの道を作ったのは、日本の保護者や社会一般であることを、はっきり自覚する必要がある。

ところで、アルバイトは、本当に非行につながるばかりの「否定」すべき内容をもっているのだろうか。学校で学ぶことは、社会や家庭で学べないことがたくさんある。けれども、学校で学ぶことは、入試の役には立つかもしれないが、社会に出て役に立たないものもある。これは事実だ。アメリカの高校でも学び、帰国して日本の高校へ転入して学んだような高校生は、日本の高校教育のつまらなさや欠点を的確に指摘している。

そればかりではない。アルバイトは人生を渡るうえでの責任や労働や強調といった、重要でなくてはならないものも学ぶ。このことは既に述べた。

もっとも、アルバイトの歴史的な意識からみれば、今日のアルバイトは、すっかり変っている。「おしゃれ」や「旅行」のために働くという者も多くなったし、「かっこいい」かどうかもポイントになってきた。そのなかで、かつて高校生のアルバイト賛成論者が口にした「責任感」や「労働の尊さ」などは、どんな位置づけになっているのだろうか。

また、「自己意識」は、単におしゃれや旅行から、「自分に適した職業」の選択へと結びつく必要があるだろう。それが大きい意味での「インターンシップ」であるが、日本の高校生や大学生には、まだ「適職」意識に関心を示さないようだ。

本調査は「自己概念」を中心に、自分はどんな性質、特長をもった人間かを認識し、それが中核となって、どう職業に結びつくかを検証しようとした。しかし、その途はまだ百里のうちの一里にも達しないのかもしれない。

日本では自己概念の意識の発達が遅すぎる。それは会社依存の長い歴史がそうさせているのだろう。また、社会にどのような職業があるかの認識も未だしである。アルバイト学生はもとより専門学校生にもこの意識が少ないのではあるまいか。

 

(千石 保)

 

 

 

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