力もした。
しかし、なぜ解剖学を学ぶのに、 一つ一つご遺体を解剖しなくてはならないのだろうか。解剖用のご遺体を集め、それを長期間、保存に耐えるように処理するのは並大抵の苦労ではない。授業と、カラーアトラスで間に合うのではないだろうか?
そういった考えにはこう反論することができる。いかに学問が進歩していくとしても、所詮それは人間が頭の中で産み出した産物である。教科書であれ、解剖図であれ、そこには人間の理解という限界が存在している。実際に生きていた存在そのものに比べるべくもない。解剖学が生まれたのが人間性の復興の時代(ルネッサンス)であったのとそれは無縁ではない。それは人間をしばりつけていた観念の鎖を打ち破る最大の原動力だった。解剖実習で私が学んだ最大のこと、それは人間というものが、ただ我々の理解した限りである神経、血管、筋、骨のかたまりではないということ、常にそれ以上の理解をこえたところに真実があるということだった。
それを教えてくれた教官や技師さん、そして名も知れぬご遺体に心より感謝しお礼を述べたい。
『解剖実習を終わるにあたって』
南 幸
九月三十日から始まり二月十八日までほ