遺体としては認識していなかった。母がなぜこんなに泣くのだろうと不思議に思っただけだった。中学生の時は、もちろん解剖学的興味などなくて、よく知っている人が死んでしまったという感覚が主だった為つまり、生きているものがいつかは死ぬ、という変化の方をより強く認識していた。
しかし、解剖学で行ったことは、その正反対のことだった。死んでいる遺体から、生きているときの、機能、作用などを推測するのだ。解剖学というのはご遺体を徹底的に切り開くという点が特殊なだけで、行うことは極めて、自然な、人間的な事ではないだろうかつよく考えれば自分がお葬式の時に感じたことも同じだ。死んでしまっているにも関わらず、祖父の生きていた時、かわいがってくれた事などを回想する。ご遺体のご家族の方とはちがった結びつきが生まれたような気がする。
自分の班が担当したご遺体はとても解剖が行いやすかった。これも生前の節制のたまものだろうか?「わたしはその解剖図を非常に慎重に、しかも各部々々の認識をいたく妨げる脂肪および血液がなくなっているために、実にらくらくと描いた」(レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(下)杉浦明平訳、岩波文庫)とレオナルド・ダ・ヴィンチは書いているが、全くそのとおりだった。彼の解剖したご遺体は、いかなる苦痛も感じずにこの世を去った人だったが、自分の解剖したご遺体もそうであったことを願った。生前どんな人生を歩まれたのかというご遺体の声を聞く努