実習が始まるまで、私の中には「解剖実習」=「医者になるための一歩」という程度の感覚と、「からだの中を一度くらいは覗いてみたい」という興味本位としかいえない気持ちしかなかったような気がする。少なくとも献体された方々の遺志、そしてそこに至った過程を考えたことはなかったように思える。だが、実際に解剖実習に入りそして三五体の御遺体に対面したとき、とてつもなく重い何か―本当の意味で献体された方々の遺志に従うことができるのかという不安だったように今は思える―が自分にのしかかってきて自分が潰されてしまうような錯覚に襲われたことを今も覚えている。
実際に解剖実習が始まってみると、最初のころは私にとって記憶力と体力そして時間との戦いという部分が大きかった。一つを観察するためには、どうしても他との位置関係が失われてしまうものがある。そのため、一回の実習でどうしてもやらなければならないことが必然的に決まってしまう。初めのころは特に剖出に時間がどんどん費やされ、細部の観察が追いつかないときもあった。そのときの自分には献体された方の遺志を思う余裕もなく、献体を物のように見ていた部分が自分のなかにあったことを否定できず、解剖実習はそういう自分に対する自己嫌悪との戦いでもあった。解剖実習も半ばを過ぎると、自分に若干の余裕が生じ、細部の観察をすることができるようになった。そうなると、最初のころに解剖した部分をもう一度細かく観たいという衝動とともに私が解剖してきた御遺体