は、わからないままに適当なラテン語をつけて提出してしまう。すると、どんなに小さい間違いも先生に見つかってしまい、「こしんなはずあるか」「たしかか」と赤エンピツで大きく書かれたレポートが返ってくる。そのくり返しだった。レポートを作成することは、私にとっては大変だったが、百枚ものレポートを一晩、二晩で全て目を通し、紙が真っ赤になるほどにチェックをして返却して下さる先生の情熱になんとか応えたいという気持ちが、私を支えていたように思う。
レポートが終わってからの日々は、苦行僧のような気分だった。マラソンでも三〇キロメートルあたりが最もつらいというが、私の解剖も六月あたりからつらくなり始めた。その最大の原因は、解剖が進み、御遺体が人間の形から離れてきたことだったように思う。医学部で学び、医師になっていくためには、どこか醒めた目も必要だということを頭では理解しているのに、私の感性が拒絶していた。折しも季節は初夏。実習中に休憩と称して校舎の外に出てぼんやりする機会が増えてきた。真青な空、輝く樹々、列をなして動く蟻。私は生きているんだなあ、としみじみ思った。
結局、解剖が終わるまで、この違和感は続いた。御遺体の方が生前望んでおられたような解剖実習ができたかどうかは、はなはだ自信がない。しかし、精一杯やったという満足感はある。
解剖実習を通して私が得たことは、人体構造についてではなかった。体の各部の名称を