昼間開園との間にある意味の変化には次のようなことが考えられるのではないだろうか。
既存の動物園においては、多くの動物の行動時間帯が夜であるにも関わらず、日中に開園し、ある種特別な夜行性動物たちは、昼夜を逆転させた暗室型の展示施設を造り、水槽のようなガラスで仕切られたケースに入れられて展示されていた。しかし、シンガポールの「ナイト・サファリ」そして和歌山県の「アドベンチャーワールド」では自然の「文化化」を無棚放養方式のひとつであるサファリ形式の展示方法に加えて、夜という異なる時間軸を設定することによりおこなっている。夜間開園は「文化化」をさらに補強するためにおこなわれているのではないか。しかし、かっての動物園における夜間開園はにぎわいをつくるだけだったために、動物を見せるという本来の役割はおろそかにされがちだったのである。
「ナイト・サファリ」はそれぞれの動物の生息地に応じて展示されている。「シンガポール動物園」と同じくオープンコンセプトにより計画されている「ナイト・サファリ」でも「精神的拘束(psychological restraint)」の手法が取られており、自然の風景が再現され、昔ながらの棚を使った動物の囲い込みは隠されている。観客にとって動物との間に棚がないという幻想は夜の暗闇を利用してカモフラージュされた棚や堀の判別が難しくなることでより強調されることになる。
ナイト・サファリにおいて最も重要なことは明るさのバランスを正確に保つことである。観客が動物を確認できる程度に見えるということが、ナイト・サファリの役目である。もちろん、動物の夜間の行動に対して悪い影響を与えるようなことがあってはならない。そのため、シンガポールの「ナイト・サフアリ」ではスナドリネコが魚を狩る様子やシカが前を横切る様子を見ることができる程度の明るさ、よく晴れた日の月明かり程度の明るさ、を保つように調整されている。
動物園は植民地的なるものからの搾取の結果を展示する場であったのだが、現在ではその意味は失われている。動物園は都市住民が抱く、自然という無垢なるものへのあこがれを投影する場となったのではないだろうか。野生動物は本来、人の眼前に現れるものではなく、現れた場合、多くはどちらかの死という結果が待っていた。野生動物は見えないからこそ、その存在を維持することができたのである。しかし、近代化以後の世界各地において動物園という装置が誕生し、国内外の野生動物やその子孫たちが、一般の人々の目にさらされることとなった。このことは野生が人間の手中に入り、野生が滅亡する速度が上がっていったことを意味する。失われた野性的な空間、自然という無垢なる空間を「文化化」した結果の一つの装置がナイト・サファリという形態ではないだろうか。そこで重要なことは動物をみることはできるがはっきりとは見えない、と言うことである。人間以外の多くの生物が行動する夜間に、観客はある種の心理的危険を犯すことをシュミレートすることでナイト・サファリという疑似野生空間、ひいては「文化化」された自然空間を楽しむのである。