治39年4月22日付『時事新報』)、大蔵・農商務省が欧米にホテル事業を学ぶ研修生を派遣する等、徐々に盛上がりをみせてきた。
(2) ?期(明治45年〜昭和17年)
3期(明治45年〜昭和3年)には、鉄道院と民間の半々の出資で「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」(以下JTB)が設立された。JTBは従来の受身型の外客接遇事業に加え、初めて積極的な外客誘致海外観光宣伝を開始する。宣伝内容は、日本の風景や文化で、方法は、英・仏・露・中国語で作成した宣伝印刷物を当時世界各国に航路を拡げた海運会社に業務嘱託して配布するものであった。また、JTBは国内での外客接遇斡旋のために国際観光ルート上の鉄道院主要駅に外客用案内所を設置する。海外にも、中国や欧米各国はもとよりカルカッタやウラジオストックまで、海運会社に委託の形で案内所を設置する。
一方、啓蒙事業の必要性が先述の「経済調査会」で決議され、小中学校教科書での教育や学者等による講演が方法として例示された。
4期(昭和4〜17年)では、海外宣伝は?国際観光協会が行った。同協会は鉄道省及び民間が共同出資して昭和6年に設立した団体であり、東京オリンピック開催を睨んで、昭和12年から政府会計から補助金が交付された。当初は米国人誘致を主目的としていたが、戦時色の深まりにより米国及び近隣アジア諸国との国際親善がテーマとなり、さらに対米対植民地政策としての国情・文化宣揚が目的に付加されていった。
宣伝方法は、海外宣伝事務所の設置、日本の庶民の生活文化の平和の姿と風景美をアピールする印刷物や映画の作成配布、マスコミ広告、海外博覧会への参加等である。また、外国特に米国からの観光関係者、青少年、学校教師等の招請、さらには東洋観光会議開催による近隣諸国との共同宣伝の企図等、前3期に較べ極めて多彩な内容となった。
特に啓蒙事業に力を入れ、国際観光局は、関係業者に対しては海外の観光研究書を意欲的に出版し、また、一般国民に対しては観光祭や観光報国週間を開催し啓蒙に努めた。ユニークなのは、歌にもなった青い眼の人形の招聘と国内巡回で、これは欧米人に対する親和の念涵養のために行ったとされる。
こうした、一連の事業は、「その企画立案と実施の経験を豊かにし、後の6期以降の本格的施策展開にあたっての大きな基礎となって継承された」といえる。
(3) ?期(昭和20〜45毎)
戦争後の5期(昭和20〜29年)には、ハード面同様、ソフト面でも法整備が進む。海外宣伝及び外客接遇はJTBが担っていたが、昭和24年の「国際観光事業の助成に関する法律」の制定により、国際観光振興に係わる団体に助成を行う法的根拠ができ、