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ただし、特に重点がおかれたのは、大阪万博を控えていたためやはり東海及び山陽ルートであり、山陽新幹線や東名高速及び中央高速道路の早期完成、さらに、神戸港、大阪港施設等の整備推進にはこうした国際観光政策の推進という力も働いていたと推察される。

このような展開を追ってくると、明治以来、国の玄関口は関東、関西の2大都市圏であり、国際港湾整備、国際空港整備は、ここで繰り返し行われているといえる。国際観光地や国際観光ルートも、これら国際港及び主に外客が集中する地域とを、各時代の主要交通幹線で結びつけることにより選定されてきているといえよう。

 

6. 国際観光政策のソフト面の施策の展開の変遷

上記の国際観光政策の国土上での展開に応答する誘致宣伝、斡旋・接遇・啓蒙・研究等のソフト面の施策はどう変遷してきたのかをやはり小区分の時代を追ってみていく。

 

(1) ?期(開国〜明治44年)

1期(開国〜明治25年)は、外人旅行制限中であったため、当然、海外宣伝は行われていない。ただし、政府は外客を念頭においた博覧会は開催しており、明治5年には、特に入地を制限し外国人側も危険視していた京都で博覧会を開催し多くの外国人を招いている。

接遇面では、政府は「幕府別手組」という護衛を再組織し、居留地近郊の遊歩(観光)を行う外国人の警護を行った。一方、国民に対しても、庭園、寺社等の観閲希望の外国人に便宜を図るよう呼びかけている。政府によるガイド規定はないまま民間のガイドが登場し、明治12年にはガイド組合の結成も行われている。なお米欧回覧使節団の正使、岩倉具視が帰朝後欧米のホテル事業を詳細に報告し、ホテル建設の必要性を説いている。

 

2期(明治26〜44年)も海外観光宣伝は行われていない。接遇面では、この期全般にわたり悪質ガイドが問題となり、内務省はこの期末(明治40年)に外国人案内業者取締規則を出して対策を講じる。一方、パりの観光事業に触発された渋沢栄一ら財界人は、わが国初の外客斡旋機関「喜賓会」を設立し(明治26年)、受身ながらも国策的見地から外客接遇に取組み始めている。この設立時の綱領には早くも「観光」の文字が使用されており、当時はまだ"Tourism","Tourist"に対応する一般用語としての適切な日本語がなく、「ツーリズム」、「ツーリスト」とカタカナ書きしていたことから考えると特筆に値する。

私鉄では観光地への外客誘致を図り、従業員の英語教育や外客用の食堂車・寝台車を連結する等、外客の接遇に熱心に取組み始めた。

政府でも、大蔵大臣が経済学協会例会においてホテル建設の意見を発表したり(明

 

 

 

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