(2) ?期(明治45毎〜昭和17年)
3期(明治45年〜昭和3年)になり、初めて国政としての観光ルートの設定及びルー卜上の観光地の整備とが連携した形で取りあげられる。具体的に施策を実施したのは鉄道院であり、「シベリア経由国際連絡運輸会議」(明治43年)の国際協約に基づく朝鮮、中国、ロシアを周遊する世界一周観光ルートや、日支、日満周遊ルートを選定した。この背景には、世界的国際強調外交の機運とシベリア鉄道の完成があった。このルート沿いに、当時の国際港敦賀と下関の間に急行、特急を走らせ、下関や奈良でホテルを直営した。同時に支線ルートの選定と既存観光地の再開発の検討も行われている。
鉄道省が実施していた日支周遊券のルートは、日本より北京に至り京漢鉄道もしくは津浦鉄道により南下し、上海を経て日本に帰来するかまたはその反対に廻るものであった。
また、先述の「大隈内閣経済調査会」によって提案された日満周遊券のルートは、日本と近隣諸国を鉄道と汽船により周遊するものであり、長崎から釜山もしくは大連経由で、奉天、長奉、ハルビン、ウラジオストックから敦賀に帰来し新橋、長崎と行くものであった(図-3)。
敦賀-新橋間には直通急行列車、新橋-下関間には特急を走らせ、その特急には英語の熟達した車掌を配置していたさらに「経済調査会」による外客誘致策の提言では、国立公園設置(候補地:富士伊豆箱根、瀬戸内海)と国家事業によるその一帯開発計画、ホテル建設奨励と国鉄及び地方公共団体によるホテル経営等の提案がなされている。
4期(昭和4〜17年)には、新たな観光ルートの選定等は行われず、3期に政策提言された計画案が先述の「国際観光委員会」でなぞられ一部実現をみる。例えば、「瀬戸内海を縦断し別府から阿蘇熊本を経て三角に至り更に島原より雲仙、長崎に至る経路などが確固たる観光ルート」と捉えられていた。鉄道省は、この国際連絡ルート上の東京-神戸間や東京-下関間に3期よりも高速な特急「富士」「桜」「燕」等を増発した。
観光地開発では、3期の提言が一部実現し、外客誘致を目的に含み国立公園が指定された(昭和7年)。高橋蔵司氏(当時、国際観光局員)は「国立公園の選定の視察