さらに、観光局設立後まもなく、日本の対中国政策が軍事色の濃いものとなったため、外貨獲得という目的に、国際観光による親善・理解・友好の効果を意識した国際的孤立の回避という目的が加えられた。
このように、この期は国際観光政策がひとつの独立した体系的政策として確立し、展開されだした時期である。すなわち、総合的国際観光政策確立期と捉えられる。
しかし、この時代の政策は大平洋戦争により中断され、結実するまでには至らなかった。
(3) ?期(昭和20〜45年、小区分5、6、7期):国際観光政策の再確立・結実の時代
太平洋戦争による空白期を経た?期は、?期での国際観光政策の位置づけと方向性が平和国家という枠組みの下で改めて再確立された時代である。すなわち、国際観光政策は、その意義に、平和な貿易立国として経済復興を目指す「外貨獲得」と国際交流親善による「平和な文化国家建設」とをもつ、日本の中心政策のひとつとして位置づけられた。
そのため国際観光政策は、昭和20年代には国会の文化委員会で審議されている。この位置づけの下に国際観光事業の助成法が次々と整備され、経済自立後は、オリンピックや万博等の国家的イベントの招致と開催に向けて、事業の進捗・飛躍をみ、国の基本法である「観光基本法」の制定という結実をみた。
小区分5期(昭和20〜29年)は、国内資源の開発しか許されない占領下で「国破れて山河あり」という観点から、焦土に残された観光資源を基に国際観光政策を再出発させた時期である。国土・経済復興の目的に併せ、上述した「平和な文化国家建設」という政策意義を掲げた政策理念再確立期と捉えられる。
戦後の観光行政の立ち上がりは早く、昭和20年には観光係が設けられ、同21年には観光課、同24年には観光部と昇格していった。また、諮問機関として観光事業審議会が、同23年に臨時に、同24年には総理府所管として正式に設置された。観光事業審議会は、熱心に活動し多くの建議等を出したが、観光事業は、資金や資材の不足とGHQのホテルや鉄道車両の接収のため、遅々として進まなかった。
小区分6期(昭和30〜37年)になると、国際観光政策の意義・位置づけは5期と変わらないものの、東京オリンピックの招致と開催に向けての地ならしとしての政策が、部から局に昇格した運輸省観光局と観光事業審議会がリードして展開された。すなわち、政策拡充期と捉えられる。
この時期の施策は、昭和31年に閣議決定された「観光事業振興5ケ年計画」に基づく。
小区分7期(昭和38〜45年)は、昭和38年の『観光基本法』の公布施行を受け、今度は、大阪の万国博覧会や札幌オリンピッ