そんなことはないのよ。たとえば、この靴は、日本に行くということであわてて新調したのだけど、前に履いていたものは修理しながら、だましだまし10年ぐらい使っていたわ。このバッグもそう、穴があいているでしょう。でも、とても気に入ってるから手放せないの」
その足で、国際交流基金に向かい、IVWのフェアウェルパ―ティーに参加。その後、セゾン文化財団森下スタジオで行われていた、トライアングル・アーツ・ブログラム(TAP)のディスカッションに参加することになっていたが、その後に田中泯さんと世田谷で最後に再び会う予定だったのでメンバーのみんなへのベトナムから持って来たお土産を取りにホテルに立ち寄る。レセプションにエア宛のFAXが届いていた。それを受け取り、お土産を取りに部屋にいったんあがったエアの表情が、戻ってきたときには一変していた。FAXはベトナムの文化省からのものだったのだが、なんということだろう。それは、お父さんの訃報を伝える手紙だったのだ。楽器の件でベトナムへ連絡したときからいくらも時間はたっていないのに。
「このような状況では、TAPのディスカッションに行っても話ができないだろうから、キャンセルさせてもらった方がいい。そうしよう」という私に、「確かに以前から、父は体調が思わしくなかったの。でも、父の死は突然、私がたった六日間、日本にいるときに起こってしまった。今、私が日本にいる目的の一つとしてこのディスカッションもあるのだから行かないわけにはいかない。ベトナムから遠く離れている私には何もすることができない。ここで私が泣いていても、まったく意味のないことだから、会場に行きましょう。私は大丈夫だから」と歩き出してはみたものの、実際、彼女はいつ気を失ってもおかしくはない状況だった。移動中、「このことは、待っている皆さんには言わないでください。気を使わせてしまっては申し訳ないから」と言う。会場では、セゾン文化財団の久野敦子氏、アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)のジョージ・コーチ氏をはじめとする 日本、米国、そしてフィリピンからのTAPの参加者が、エアのことを待っていた。最初、素振りも見せず、穏やかにみんなの輪の中に入った彼女だったが、自分の話をする段になって、自分の人生の中で大きく存在していた父親の話に触れない訳にはいかなかった。思わず、涙ぐみ、声を詰まらした彼女を見かねて、思わず間を埋めようとした私が安易に「彼女の表現はつまり伝統舞踊を下敷きにしたコンテンポラリー・ダンスで…」と言いかけた途端にエアが
「そうではなくて、何が伝統舞踊で何がコンテンポラリー・ダンスかというとらえ方の問題だと思うのだけど、わたしは、自分がやることは、すべて今生きている自分自身の中から出てきたコンテンポラリーな表現だと思う。伝統舞踊をそのまま舞台で使おうと思ったこともない。音楽は確かにベトナムの伝統的な楽器を使って演奏しているのでそういうトラディショナルな印象を受けるかもしれないけれど」
無事に彼女のスピーチが終わったところで、時間が来てしまった。私たちは会場を後にし、三軒茶屋に向かった。「作品を創るということは、私にとって非常にパーソナルなことなの。だから、ああいう形で様々な文化や歴史を背負った人々が集まり一緒になって一つの作品を創ろうというアイディアは私にはないし、わからないわ」彼女は、悲しみに浸ってばかりではない。
世田谷パブリックシアターへ移動し、田中泯氏を訪ねる。その後、事務局へ行き高萩宏氏に事情を説明し、ベトナムとのやり取りのために事務局の電話を使わせてもらう。彼女の帰国旅程は、飛行機の乗り換えに時間がすごくかかるものだった。ハノイから車で4、5時間という山奥の実家まで帰るのに待ち時間を含めると丸一日かかってしまう。できるだけ、早くお父さんのもとへ帰れるようにしてあげたい。ベトナムの実家へやっと電話がつながった。悲しいことを話しているのだから、何語であろうと悲しく聞こえて当然なのだが、こういうときのベトナム語の音は、さらに悲痛さを増して弾くものだと実感した。受話器を置いたエアが机に泣き崩れた。
「私の家族はスチューピッドよ。私が帰り着けないことを知っていて、私が帰り着く前に暦にしたがって父の葬儀を行おうとしている。私のために待ってと頼んでいるのに、私が父の顔も見られないまま、彼等は葬儀を進めようとしている」
最終的に、エア自身がチケットの購入元であるベトナムの航空会社に電話をし、向こうから日本のチェックインカウンター宛にチケットの変更手配のFAXを送ってもらうことになった。これで大丈夫そうだ。後藤も息を切らせて駆けつけた。明日は朝6時30分には成田空港のチェックインカウンターにいなければならない。
10月25日(土)
東京発成田行快速の始発に乗り合わせて、空港へと向かう。ベトナムからのフライト スケジュール変更のFAXは無事に届いていた。
「私は、ベトナムではちょっとした有名人なの。でもそれは、映画スターとかのようにちやほやされるということではなく、みんなが私のやっていることに理解を示し、敬意と親しみを持って接してくれるということかしら。だから、航空会社の人もエア・ソーラが言うことなら対応してくれるということもあるのよ」
カウンターでチケットを交換してもらう。やっと一安心。エアも落ち着いたようだ。彼女は、本当にこの六日間朝から晩まで、よくしゃべり、よく笑い、様々なことに好奇心を寄せ、分析をし、一緒にいる私も本当に目まぐるしくも密度の濃い経験をさせてもらった。この小柄でいて、偉大な表現者が、いよいよゲートインするというときに、私は思いついた。日本を発つ直前の記念に現代日本の象徴、プリクラをやってもらおう。しかし、ここでもエアはエアだった。機械を前にシステムを説明していくうちに、持ち前の好奇心と集中力で、夢中になって、バックの絵を選び、ポーズを取る。一回やってポーズか気に入らなかったらしくもう一回トライする。花をバックに微笑む自分のプリクラシールを手に、「今度日本に来るときは、もっとたくさんプリクラを取ることとコンビニのおにぎりを買って帰ることをふれないようにするわ」
ようやく笑顔を取り戻したアーティストは、ちゃめっ気たっぷりにウィンクしながら、ボーディングゲートへ向かっていった。
(記:松山聖子)