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ま と め

「アーティスト・ミーツ・アーティスト」の意義について

 

「アーティスト・ミーツ・アーティスト」は、現場の発想に根ざすものである。コミュニケーションこそが芸術的想像力の源泉であるという認識は、創造の現場に携わったことのある人にとっては親しみやすい考え方ではないかと思う。自分とは違う発想をする人がこの世の中には存在していて、その存在が私の眼の前に突然現れ出ること、それがアートに出会うことであり、私たちのアートの体験はまさにそのようなものとしてある。私の中にさえ、自分の知らない「他者」がいるのだ。

一方で、「他者」に出会える社会を望むことは難しい。どこを見ても同じ「私」しかいない社会はとても息苦しく、「私」は「私」であることから逃れることはできないように思われる。あらゆるものからの自由、それが肯定されるためには、たとえそれがどんなに正しいことであるように見える事柄についても、「そう考えない自由」を認めることが必要だ。アートでは、「そう考えない自由」だと言うこともできるだろう。

舞台芸術フェスティバルとは何のためにあるのだろうか。あるときは海岸の優れた作品を生むためのための投資の機会であったりする。だが、優れているとはどういうことなのか。多分、皆が考える優れていることがただ一つであるなら、フェスティバルはいらないはずなのだ。誰が考えても一緒であるなら、創る現場も創ること自体も必要がなくなってしまう。

アートは何故社会にとって必要かを説明することは難しい。アートが社会にとって必要だと考えている人は、一般的にはあまり多くないはずだし、そんなことを一度も考えたこともない人に、そのことを説明するのはまず不可能に近い。だが、その不可能性を前提としてなお説明を試みようとするところから始めるしかないのではないか、というのが私達がこのプログラムの企画にあたって考えたことである。アートが必要とされない社会でアーツ・フェスティバルが顧みられるはずもないではないか。

コミュニケーション プログラムとは、実はデイスコミュニケーション・プログラムである。コミュニケーションが成立することが当たり前であればそれは必要ない。アートが限りなく不可能に近いことを前提にしないならば、そもそも「舞台芸術フェスティバル」など不要である。

ポスト・パフォーマンス・トークであれ、 ダンス演劇のフォーラムであれ、アーツマネジメント・セミナーであれ、何かが成し遂げられたと誰かが口でいうのは易しい。具体的に何と何と、 というように挙げていくことももちろん可能だ。しかし、何かが成し遂げられたという事実だけで意義をはかろうとするなら、そこで成し遂げられなかったことがらは決して成し遂げられないままに永遠に残されてしまう。故に、極めて逆かと的だが、私たちの意志や努力にもかかわらず不可避的に成し遂げられなかったことがらで私たちはこのプログラムの意表をはかることになるのだ。だが同時に、より大きな不可能を自覚するためには、足元とのより小さな小可能は可能になっていなければならない。これもまた疑いようのないことだと私には思われる。この現代に舞台芸術フェスティバルを東京で開催するということは、つまりそのような小さな可能性を積んでいくことではないだろうか。

「アーティスト・ミーツ・アーティスト」は、このように私たちにとってフェスティバルのあり方そのものを示すものであり、そこではフェスティバルを通して芸術が社会に、社会が芸術に出会うのである。よって、フェスティバルが続く限り、「アーティスト・ミーツ・アーティスト」がなくなることはない。これが私たちの確信である。

 

曽田修司

 

 

 

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