ヨーロッパの劇場の建築家達は、私が見るところでは、全員が殺人者です。
Q1●パパ・タラフマラで制作を手伝っている者です。ゴレザレスさんが先程、外に向かって開かれていない場所では働くべきではない、とおっしゃっていました。プロデュースというのは、どのようなものでも外に開かれているものだと思うのですが、その点についての具体的な説明をお願いします。
ゴンザレス●劇場の中でも、全体の組織、構造自体が、劇場というよりは城砦のようなところがあります。大きすぎて、親密な感じが全くなく、動線がとても複雑で、場所自体が聞かれていない感じがする劇場です。それから、上演されるラインナップ自体が、開かれていない劇場もあります。数年前から私がやっていることは、舞台芸術の中での細かい区分をとり払ってしまうことです。もちろん私がやっているのは劇場ですから、テキストに基づいた演劇を中心にすえていますが、それでも演劇の親戚であるような、声や肉体による表現の作品も取り扱うようにしています。
演劇に近いところがあれば、ある種のサーカスも取り入れるようにしています。上演演目自体が、私達の所とは違って開かれていない場所があると思うのです。つまり、上演されるものを一つの色にまとめてしまって、一種の重々しさや均質性の中に観客を閉じ込めてしまうような劇場です。「開かれていない」という言い方をした中には、劇場空間自体の閉鎖性と、その劇場の活動内容の閉鎖性と、両方あるのです。そしてその劇場自体がどこにあるか、という事も重要になってきます。私達の劇場は、スイスのレマン湖のほとりにあり、山も見えて、まるでオアシスのような空間だと私は考えています。 そうした空間に私達の劇場があることが、私達の生き方、あり方、仕事のし方に大きな影響を与えています。
そして観客がそこに来るか、そこで簡単に車を止めることができるか、美しいものに囲まれているかとうかといったことも重要です。そうした様々な要素が一つになって、その場所が開かれたものになるか、開かれていないものになるか、また、生きた場所か、死んだ場所かを決めるのだと思います。私が言った、あまり開かれていない象牙の塔のような場所は、いわば生ける屍のような劇場であり、そういう劇場も存在しています。ヨーロッパの劇場の建築家達は、私が見るところでは、全員が殺人者です。建築家自身の名前が後世に成ることばかり考えていて、そこで働く人の事も観客の事も考えていない。
そんなことはどうでもいいと考えて作っている建築家が多いような気がします。ただし、我々の側に、建築としての劇場を選択する余地がない場合があります。その際は、我々が、全ての手段を動員して、その場所が生きたものになるよう努力をすべきです。あくまでも場所の原動力となるのは、舞台そのものだからです。そこで上演する作品の選び方、演じ方、質、作品の力、美しさによって、その場所に生命を吹きこむようにしなければなりません。
観客がそこに来ることが重要だからです。私達が今いるこのシアタートラムは、最近できたものだと聞きましたが、まったく人間的な、生きた人間のサイズに合った劇場だと思います。大きなホールの方も、小劇場の方も、舞台と観客との関係を考えて、しかも、機能的に作られていると思います。この舞台と客席の関係はとても重要になってきます。見ただけで、演劇人が考えた劇場だということがわかります。劇場の感じ、人のアクセス、この界隈への溶け込み方、全てが一つとなって、ここに来た途端に私は、自分が劇場の中にいるんだという感じを持つことができました。そうした感じが持てない所もあります。
これは、言葉で説明することはできませんが、いつもそうしたことを私は強く感じています。ヨーロッパの場合は、たくさんの劇場がありますが、その中の成功例はわずかで、失敗に終わった劇場をたくさん見てきました。日本の場合、私はいくつかの劇場を訪ねることができましたが、客席と舞台との関係が驚くほど考えあげられている劇場が多いように思いました。演劇は、結果的には二つの重要な要素から作られるものだと思います。それは、空間と時間です。空間というのは、舞台そのものの空間、舞台と客席が作りだす空間です。そして、時間というのは、作品の準備をする時間、仕事をする時間、稽古をする時間です。この時間と空間の二つの要素があいまって、初めて本当の演劇ができあがるのです。