それは僕達だけじゃなくて、他のアジアの国にも同じことが言えるわけで、伝統的な演劇芸術があるんだけど、現代演劇、近代喜劇となるとやっぱり西欧の影響で成り立っている部分がある。同時に、西欧の影響を、最初は何とか西欧のレベルまで持っていこうという目標で始めたものが、いや、西欧とは違う独自の自分達の現代演劇を創ろう、というところまで来ているわけですけれども、それてもポジティブな影響、ネガテイブな影響、両方得ているわけですね。ですから、いわば西欧の近代演劇の元祖であるところのシェイクスピア、もちろん、もともとシェイクスピア自体は近代演劇ではありませんけれども、近代演劇の中でも非常に頻繁に採用され、何度も挑戦されているシェイクスピアの作品というのはいいんじゃないか、というのが最初の考えでした。
言語の問題がありますので、わかりやすい話がいい。これは、非常に心理主義的な言葉が分からないとなかなか内容が理解できないような芝居は、両方の役者でやるのは難しいだろう、ということがありまして、誰にでもよく分かっている話、筋だけは誰にでも分かるというような話をやろうと、それで『ロミオとジュリエット』が出てきたのだと思います。『ロミオとジュリエット』はもともと悲劇ですから、脚本家同士で話し合っているうちに、『ロミオとジュリエット』の場合は二人の若い恋人が死ぬことによって、モンタギューとキャピレットという対立していた二つの家が後悔し、あらためて手を結んだというハッピー・エンドになっていますけれども、今の僕達の世界に対する認識というのは、そんなに甘くはない。
例えば黒テントとPETAが20年も兄弟のように付き合って一生懸命フィリピンと日本の演劇の文化の差をぶつかり合わせて何とか共同のものを作ろう、というふうにしてきても、フィリピンという国と日本という国はそういう付き合いはしていない。たとえ僕らが仲良くなっても国同士が仲良くなるかどうかという保証はない。そういう世界に僕達は生きている。
そういう意味では悲劇を悲劇として演ずるということがなかなか僕達には難しいだろう。もっと皮肉な目とかもっとアイロニカルな目とか、それから民衆の知恵、生きていくバイタリティーみたいなものをもっと使った、笑いというものをある種の批評性として使い得る表現というものが必要になってくるんじゃないか、というのが僕達の話し合いの結果だったんですね。それで、喜劇という形、『ロミオとジュリエット』を喜劇としてやろうじゃないか、でも喜劇といってもいろいろな形があるわけで、僕達はその確実な形の喜劇の方法を持っているわけじやないので、僕達は案外、日本のドタバタ演劇とか軽演劇とか大衆演劇とかそういうヒントを使う。
彼らも彼ら自身が歴史の中で持っているウォートヴィルという喜劇、いわゆる漫才とか、寸劇とかそういうものですね、そういうものの要素というのを何とか合わせていく中から新しい喜劇の要素が出てこないかなあというのが今回の目標でした。確実に喜劇としての方法を捜し当ててから始めたわけじゃないんです。とか、寸劇とかそういうものですね、そういうものの要素というのを何とか合わせていく中から新しい喜劇の要素が出てこないかなあというのが今回の目標でした。確実に喜劇としての方法を捜し当ててから始めたわけじゃないんです。