『ザ・ポー・プロジェクト−粘膜の嵐』
1997年10月31日/かめありリリオホール
スピーカー:ボニー・スタイン、木幡和枝、田中 泯
ダンサー達がどういう資質の人かというのがそれだけ重要になったわけです。
木幡和枝●では、ボニーさんの方からこのボー・プロジェクトがどういう経過で始まったかを、言い出しっぺはアメリカ側なんですけれども、短く説明していただきます。
ボニー・スタイン●今日はご覧いただきありがとうございます。まず、このポー・プロジェクトの始まりと経過をお話します。私は、随分たくさん、いわゆる文化交流というプロジェクトをやってきました。そして、文化交流の持つ危険性も充分承知しています。文化交流することによって、作ったものがどうしても希釈化される、中身の薄いものになってしまう、というような危険性を承知の上で、それを乗り越えようとしてやっています。まず、このポー・プロジェクトは、前に、ジェイコブズ・ピロウ・ダンス・フェスティバルというマサチューセッツ州にある65年の歴史を持つ、アメリカで一番最初の、一番歴史の古いダンス・フェスティバルのディレクターだった、サム・ミラーという方がいますが、彼から田中泯に、アメリカのダンサーと一緒に何か作品を作ってみないかという申し出がありました。
次に、今回のプロジェクトでここが一番重要で大変面白い点だったと思いますが、田中泯側からの条件として挙がったのが、アメリカのダンサーは必ず日本に来て、白州の自分の本拠地に1ヵ月はいてもらって、そこで踊りを作る、それが出来るダンサーでやりたい、ということでした。つまり、ここでふるいにかけられるわけです。非常に適応性のある、違う文化違う土地で一緒に生活することを良しとするダンサー、しかも、振り付け・稽古・リハーサルと同時に、農作業も一緒に楽しんでくれるタイプのダンサーというふるいがかかったわけです。そこで落っこっちゃう方もいる訳です。百人位のダンサーのオーディションをニューヨークで田中泯がやりました。その条件で1ヵ月作ることを厭わないか、あるいは、畑の草むしりをするのを厭わないか。つまり、 1日中スタジオでリハーサル出来るわけではないということが、そこではっきりとしたのです。
アメリカ側の制作者としては、日本側の木幡さん、あるいは田中泯さんが、送り込んだダンサーをそれなりにちゃんと扱ってくれるという信頼感はあったわけですけれども、その上で、さっき言ったようないわゆる表面的な文化交流の危険性を避けるためには、まず、ダンサーの選び方が重要だと私も考えました。ダンサーは、もちろん、プロとしてダンサーとしてのコミットメント、やると言ったら最後までやるというコミットメントももちろん必要です。しかしながら同時に、田中泯のやり方は決して決まり切った形ではないだろう、彼独自の、その場その場でのいろいろな判断をしていくだろう、ということは、ダンサーにとっては一つのリスクであり、ダンサーも、もしかしたら自分は最後までやらないかもしれない、あるいはもしかしたら作品ができないかもしれないというリスクを背負って参加してくれるだろう。
ともかく最後に何かが出来上がればいいという目的のためだけに集まるのではなかなかそのプロセスがうまく行かないということを、いずれにしても良くわかっておりました。今回の場合、田中泯とスーザン・ソンタグという大変強力なアーティストが中心になっていますけれども、その二人だけでは何もできないわけで、ダンサー達がどういう資質の人かというのがそれだけ重要になったわけです。