西堂●ちょっとびっくりしたのは、上からパンが落ちてきますね、その後に衣裳が、バアッと落ちてきて、程なくして全裸の男女が6人ほど入ってきます。そこで突然空気が変わったというか、ちょっと変な連想だけれども、豚小屋に入っちゃったような気を起こしたんです。あの空気の変え方というのは、それまでの構築的な舞台からかなり飛躍している。突然すごい場所に紛れ込んじゃったんじゃないか。こちらの身体感覚もそこで変わってくるし、裸の男女の背中がスクリーンになりますね、一瞬。そこで裸っていうものが一種の内というか、まさに物質になっていったりする。そこの身体の変容についてお話が聞ければと思ったんですけれども。
清水●空間が非常に落ち着いてきますよね、そこで外部、つまり唐突な「それ自体」というようなものを澱み始めた空気の中に入れたかったんですよね。それともう一つは「全裸」なら「全裸」、「男と女」なら「男と女」というある区別ですね、曖昧化されている。まあ「零カテゴリー」は「零カテゴリー区間」でもあるわけですけれども、そういう曖昧化されたものをきちっと、アブジェクションというかそういうものを入れて、西堂さんは豚小屋って言いましたけれど、僕はそういうふうに繋がってうれしいと思っているんですけれど、そこでとっかかりを付けて、そういうところからどうにかしてお客さんと分かち合うというか話が始まるというか、そういうふうなことなんですけどね。
西堂●要するにアブジェクションというものをとっかかりとして、しかし決してそれが気持ちの悪いものだけではない何かを探る。むしろ豚というイメージは非常に親しみやすかったり、様々な連想が可能なわけだし、さっきの鞭打ちが励ましや優しさや慈悲深い行為だっていう、そういう反転と非常に似ていますね。多義的である空間の中に六つの裸が投げ込まれて、それが投げ込まれたっていう感じがしたんですね、で、投げ込まれたものからどういうふうにこちらの想像力が開かれるかっていうと、僕は非常に効果的だった、あのシーンというのは。で、あそこになんで六つの裸体が投げ込まれなくちゃならなかったのか、あるいは俳優達がよくぞあそこまで承諾して、丸ごと出てきたな、それ自体として出てきたなっていうそのプロセスもー緒に受け止めるわけですね、観ている側は。そこら辺も結構いろいろな葛藤があったんじゃないかなと思うんですけれども。
清水●まあ長いことやっていますからね。
客4●作り方についてお聞きしたいんですけれども、俳優さんから湧き上がってくるものを使って作っていくとさっきおっしゃっていたんですが、それはパーソナリティーだとか、精神性だとか、体の記憶というものを特に意識して引き出していくのか、それとも、役者さんのイマジネーションだとか思いつきみたいなものと、演出の要求みたいなもので作っていくのか、ということをお聞きしたかったんです。