清水●いや、あれはゲットー(『TOKYO GHETTO』)の頃からですからかれこれ4年位ですね。それを舞台で見せるレベルにまで持っていくにはやはり長い年月がかかるわけで。
西堂●稽古場での一種の身体訓練としてずっとやられてきたというのは今の話でわかりましたが、それを舞台上の実際の演技として乗せるということとまたちょっと違うんじゃないかと思うんです。舞台に乗せる前の補助線として4年間の作業プロセスがあったというのはよくわかるんですが、それをそのまま舞台上に実際にあげるっていうのはどういうことなんでしょうか。
清水●いや、これは舞台以前の身体訓練であるとか、そういうふうな区別は特にないんですよ。劇団はいつも一緒にいるわけで、いろいろな仕種なり表情なり、この辺の明解な基準はなくなってきましたね。
西堂●訓練という日常的な行為と、舞台の上にフィクションを作るということに線引きがなされてないということですね。
清水●そうですね。意識して線引きしようとは思わないですね。あるイメージの演劇から出発してますから。つまりその中でこういうシーンにも見える、あるいはもっと違うことにも見えるっていう、その対応性ですね。お客さんも個人個人反応が違うと僕は思っていますし、いわば共通のルールみたいなものはほとんど解体しているわけですから、全部(受け取られ方は)違うと思いますね。ですからそういう人達一人一人に、多様性というか対応性を持たせるというふうに作るようにしているわけです。
突然空気が変わったというか、ちょっと変な連想だけれども、豚小屋に入っちゃったような気を起こしたんです。
西堂●大貫君の方から何か。
大貫●観客として久し振りに観ることができてすごく新鮮でした。中嶋さんが、すごく鍛えていますよね、腹筋とか。あんまり性的なところがないですよね。ところが、膝をついて下がってゆくというところからちょっと変わってくるんですよね。腰蓑がはだけて足が見えたり、背中に汗が浮かんでるのが見えたりとかすると、今度は性的に見えるんですよね、同じ身体なんだけどすごく性的に見えたりする。「でもそんなことない」って言う人もいたので、やっぱりそれは僕の見方に関わってくる。本当は一つの身体なのに僕がどこかで勝手に線を引いてしまったんですよね。つまり僕が男で、見られている彼女が女性だということで、そこでわかりやすい関係が成立したわけなんですけれども、だからそのプロセスがすごく見えたっていうのが、非常に面白かった。で、最初から「女性です」ということで出てくるのではなくて、例えば、どこで「男女」っていう関係が成立するのかっていうことが、「威圧」するように出てきて、ところが倒れて、「威圧」されるような格好になって戻っていくっていうときに成立しているとなると、見ている方がそう見ているってわかる形で出てくるんでね、明らかにわかるんで、そういうシーンが前半ではかなり続いてきて、見ている方としてどこで自分が決着つけているのかっていうことが考えられる時間があったので、見ててすごく気持ち良かった、と言ったら変ですけれど、印象に残ったシーンがありましたね。