客1●先程のお話で、個人が強制力にさらされるっていう話をされていたんですけれど、日本の演劇で、視線にさらされる特権的身体とか言われているものがあって、それは舞台上で観客の視線にさらされるっていう強制力だったと思うんです。ただ観ている限りでは、携帯を持つ人とかポルノ写真を撮っている感じのような、舞台と違った強制力というのを強く感じたんですね。最後に名前を呼んで鞭打っていく場面で、一つの名前を呼んで一人の人に鞭打っていくんですけれど、最初は一人に一つの名前が割り振られるのかなって思っていたんですけど、もっとたくさんの名前を一人に割り振られるようになってて、それがすごく、強制収容所とかって言ってましたけど、強制収容所っていうのは、一人の人に一つの名前が割り振られないところだと思いますので、名前の割り振られ方とかすごく興味深かったんですけれども、そういう意図というのはなかったんでしょうか。
清水●確かに、『TOKYO GHETTO』はもろに収容所の凝縮ですね、収容所的表象というか。その作業を一応終えてですね、次の作業にかかっているんです。名前を言って鞭打ってっていうと、そういうふうに見えるんですけれども、意図としては、あれは励ましというか、優しい、慈悲深い行為なんです。行為の中で、名前が自然に割り振られていく、そういうことだと思います。僕の演出はいつもそうなんですけども、最初に「こうしろ、ああしろ」って強制はしないんですよね。その人の個性とか身体から押し出されてくるものとか、溢れ出るものとか、そういうところからテクストなり演技なりを構成していくんで。
客2●稽古期間はどれくらいでしょうか。
清水●この作品は、だいたい一月です。皆アルバイトをしているので、当然夜だけです。僕らの演劇は、新しい台本があって新しいことをやるっていうような作り方ではなくて、いろいろな蓄積があって、目的を変えているというか、一つ一つのアクションあるいは状態、イメージはずっと培ってきたものなわけですね。それの目的を変えていくというか、そうすると蓄積されたアクションが、違うアレンジメントによって違う意味を持つ、ということでやってるんですけどね。