日本財団 図書館


とで、一人一人メンバーを紹介するために長いお芝居なんでして、だからストーリーなんて滅茶苦茶で、特に江戸の後期になりますと、非常に約束事が多くなって、必ずあの場面ではこれが行われなきゃならない、あそこはこうなってなきゃならない、最後は雪が降ってなくちゃいけないとかある訳ですよ、順番が全部決まってて。その中でクレオパトラをやると面白いんじゃないかな。まさに顔見世狂言っていうのは前衛劇だなと思うんですけども、ですから猿之助さんなんかが『四天王椛江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)』(鶴屋南北作)を復活なさいましたけれども、あれはやっぱりどうしても近代的な感覚でもって筋を通そうとか、なんとかしようとかっていうことが働くんで、本来の顔見世狂言の匂いとは違った物になっちゃって、本当は顔見世狂言ってもっともっと混沌としているもの、今の我々の近代の感覚でいくと訳の分からないものですね。それに偉大とまではいかないけど、何か膨れ上がったクレオパトラをつっこんだら面白いものが出来るんじゃないかと思いまして。
第一稿の脚本がなぜいけなかったのかっていうと、僕がこの世界に初っぱな入ってきた時は、新劇から入りまして、まあ、まがいもんでして、新劇のなりそこないで途中でダメになっちゃったもんだから、本を書く時は近代主義におかされて書いちゃうんですね。ストーリー通しちゃうんですよ、起承転結全部通しちゃうんですよ。この人はこういう人生を送ってるんだから、最後はこうなんなくちゃとやらないと気が済まなくなって、出来上がってみるとつまんないんですね。こんな本だったら他の方がやってもいいんじゃないか、それじゃいけないぞ、と。思い出してみると自分は最初は顔見世狂言の中にクレオパトラを入れようとしてたんだからその趣旨からいうとこの本はダメって。それじゃあどういじろうかって。
これは本当に役者達と話し合って、この現実はこうひっくり返るとおかしいとか、この関係をこうしたら終わりだとか、全部ひっくり返して書き直したんです。すっとばしちゃって全部ああいう形にして。だからストーリーを追おうとするとダメだと思います。ストーリーというものがドラマの核だって思ってるのは幻想ですね。昨日のアンケートを読ませていただいてその中に、「肝心なストーリーが解らない」って書いてある。ストーリーがなぜ肝心でなければならないのか、それはもう我々の方が毒されているもので、いわゆる、アートって、表現者が何か表現したものっていうのはその人が何にどう感動したのかっていうことを、観客、つまり鑑賞する人達が感じ合うっていうことなんで、それが何か秩序だててストーリーでもってポンポンポンと考えてものを作りましたってことを見せてもらったってしょうがないんですね。どう感じたのかということだけが伝わればいいんじゃないかなと思うんです。新劇くずれですから、僕自身を批判しつつ、意図的に壊すっていう作業を今回はしたんです。

佐伯●前にもおっしゃってましたよね。江戸時代っていうのがあって、そこに実在する人達の劇があるとしたら、当然前近代の闇みたいなものだから、そこに出会い頭にドンとぶつかってしまうのが、やっぱリー番いい事で、えーって驚く、それが芝居の一番のポイントだっておっしゃってましたよね。

加納●いえ、その人物がどういう人生を歩んで、どういう悲劇を迎えたかっていうことじゃなくて、座頭が豪華な格好して出てきて、うーっと悔しがって、やーっと大見得切って、そこにドラマがある。これは、橋本治さんに教わったことなんです。顔見世狂言っていうのはわけわかんないですねって言ったら、橋本さんが一刀両断、あれ程分かり易いものはないじゃないかって。何が分かりにくいの、だって座頭がバッと大見得切ってそこにドラマがあるって。昔の日本人はそこにドラマを感じていた。こんなに分かりやすいものはないって。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION