いく。言葉を言う瞬間に人物を表せる。そういうものだと考えています。私自身、ベケットの言葉を言っている時にウィニーという人物を感じとることが出来ます。各台詞を私が言うことによって、この人物が今、現時点で生きてくるのだと考えています。今朝、(坂東)玉三郎さんと話をしていました。そのとき「今日芝居が終わった後にポストトークがあって話をしなければならない。ベケットについて話をしなければならない」と言いました。そうすると、玉三郎さんはとても素晴らしいことを言ってくれました。ベケットの生き方、それ以外に何も言うことはないと言ってくれたのです。この言葉にとても感動させられました。
私が向ける視線がほんの少しでもズレているとナターシャが当惑するのを感じます
永井●ペランさんは、芝居の最中に「あ」とか「う」とか「ウィウィ」と言うくらいですし、皆さんも恐らく初めてペランさんの演技をご覧になったと思いますけど、フランスの主要な劇場で活躍されておられまして、そして、コンセルヴァトアールの先生でもいらっしゃるんですね。演技の理論家でもいらっしゃると私は思うんですが、このペラペラ喋ってる女の方の後ろでどういうふうに役を作られたのか、お話していただけませんでしょうか。
ベラン●今ご紹介があったように、コンセルヴァトワールで教えていて、有名なフランスの劇場に出演している人間がどうしてこの『しあわせな日々』の中の小さい端役を受け入れたのか不思議に思ってらっしゃるかもしれません。最初この本を読んですぐにはこの役を受け入れられませんでした。まず承知をする前に上演される様子を観たいとローザンヌに行き、公演を観ました。実は、公演を観る前まで、これは主人公の女性の独り言の芝居であると考えていたのです。そして、ピーター・ブルックの演出で、ナターシャとフランソワ・ベルテーが演じるのを観た時に、この作品が私の考え以上のものであったことが分かりました。この作品は、本当に二人のカップルの物語だということが分かったのです。全てが、この二人の人物の相互依存性に基づいて成されています。彼と彼女とがお互いに依存しているから存在しているんです。ナターシャは数えたと思うんですが、この2幕の間でウィニーは「ウィリー」と89回呼びかけます。このように、ウィリーがそこにいることによって機能をしているということが分かりました。そこでこの役が本当に面白い役である。また同時に難しい役であるということを私は理解したのです。つまり、芝居最初から最後まで私は絶えずナターシャと共にいなければなりません。自分の姿が隠れていて穴の中に入っていて、舞台ではウィリーが見えない時も、いつもナターシャと私は一緒にいなければならないのです。毎日これを演じる時、その時によって変わっていきますが、本当にこうやって、ずっと最初から最後まで一緒にいるというのは、とても難しいことです。ただ何らかの理由で、ウィリーがウィニーと一緒にいない時、その演技の質、ウィリーの数少ない台詞質や、二人が創り出す生活の質が変わってしまうのが感じられます。
高橋●一番最後のところでウィリーがドレスアップして近づいてきますね。倒れて這いあがって手を伸ばす時の、伸