永井●私もそろそろ首近くまで埋もれてきた年齢なんですけれども、最後までウィニーのように前を見つめて、 1日1日を生きるという姿勢、それは非常に感動させるものであったと思います。実は、プロデューサーのゴンザレスさんは、ナターシャさんが潜在的にはやりたいと思っていたんじゃないか、それを引き出すのにピーター・ブルックは年月をかけたんじゃないかというようなことをおっしゃっていました。このあたりは俳優と演出家とプロデューサーの関係を示唆するものではないかと思いますね。それから、ご夫婦の関係というものも示唆するのではないかと思います。
ベケットの生き方、それ以外に何も言うことはない
高橋●この芝居はさっきも言ったように、誰にでも分かるっていうか、アクセシブルというか、知識が何もいらない、構えてみる必要がない、そういう芝居だと思うんですね。これほど自由な解釈が許される作品は珍しいでしょう。徹底的に日常的な台詞の連続ですね、その間にちょっと深刻な台詞が混じっていく、あるいは「あの名文句なんて言ったかしら」といい、言葉を思い出しかけたところでずっこける、ということを、リズミカルに繰り返してる訳ですね。普通の芝居は、なにげない台詞でも、そこからその人物の社会的な地位とか過去の履歴とか、そういうものが分かるように書いてあって、それを近代演劇的、リアリズム的な人物造形と言うのですが、ベケットの芝居の作り方はそういうものから完全に離れているんですね。ウィニーという人物がどういう来歴を持っているのか、社会的なコンテクストの中にいるのか、というのは全く書かれていない。地面に埋まっている状況をビジュアルなイメージ、しかし決定的なイメージとしてポンと出していくだけで何の解説もない。そういう芝居を女優が演ずる時に、どうやってその役にアイデンティファイできるんでしょうか。ベケットの役になりきるということが出来るんでしょうか。あるいは、なりきらないでもいいんでしょうか。なりきれないようにベケットが仕組んでいるんだろうか。女優として、台詞はどういうつもりでどういう気持ちで喋ることになるんでしょうか。
ナターシャ●ウィニーという人物について、例えば『桜の園』のラネーフスカヤ夫人について行えるような心理的な研究をして分析をすることはできないと思うんです。ベケットのこのテキストの中に、現在において命を感じさせるものがあると思うんです。私の方で、こういう人物であると言って、人物をつくり始めると、それは一種の無関心に繋がってしまうような気がします。演じる際に私はテキストだけ、台詞だけ、その台詞の明晰さだけに自分を集中させなければいけないと思うのです。この台詞がうまく出てくると、自然にリズムが出来てきます。そして言葉によって、ウィニーという人物が表れてくるような気がするのです。つまり、ベケットの言葉によって、この登場人物は存在をしています。これがウィニーだと私は考えています。ですから、ある意味では、私自身は表れてはならないのです。私は見えない存在になって、ベケットの言葉を言うことによって、現在の、現時点での人物を作って