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「しあわせな日々」

1997年10月10日/シアタートラム

スピーカー:ナターシャ・パリー、ジャン・クロード・ベラン、高橋康也、永井多恵子

 

ピーター・ブルックはとても頑固な人です。

最初の提案をしてから、彼は3年間待ちました。

 

永井多恵子●まず、ベケットの専門家でいらっしゃる高橋康也さんに簡単にベケットの芝居について解説していただき、それから、2人の俳優さんにお聞きしたいと思っております。今日私はこの芝居、素敵に上手くいったなという感じがしました。

高橋康也●この舞台、昨年(1994)スイスで拝見しましたし、他の俳優による上演もいくつか観てますけれども、女優さんがかわる度に違う『しあわせな日々』が当然できるわけですね。同じ女優さんでも、日によって味わいが違う。今日のパリーさんは、また新しい印象がありました。この『しあわせな日々』というベケットの芝居は、僕がベケットの中で恐らく一番好きな芝居なんです。非常に親しみやすくて、初めて観る人も理屈抜きに楽しめるんじゃないかという気がします。人生のおかしさとか、滑稽さとか、悲しみとか、不安とか、そういうものがいわばモーツァルトの音楽の様に流れている。小林秀雄が「疾走する悲しみ」という言い方をしましたね。悲しみっていうのは疾走すれば喜びに変わることがあり得るかもしれない。この芝居ではそういう悲しみが喜びに変わるという瞬間が幾つもあったと思います。逆に喜びが悲しみに変わることもあります。ベケットの芝居をふりかえると、最初の『ゴドーを待ちながら』は、あまりにも有名になってしまいましたね。ベケット自身が、あんまり初演が当たったので、すっかり頭を抱えてしまって、あんなに客が入るのは何か自分が間違えたことをしたんじゃないかと深刻に悩んだそうです。ともかく、ゴドー(『ゴドーを待ちながら』)によって、ベケットは現代演劇から枠を外してしまった。ゴドーは登場人物が5人いて、賑やかなんですが、その後ベケットはだんだん自分のテリトリーを縮小していきまして、とうとう『芝居』という芝居では、骨壷が3つ並んでいて、そこから、男1人、女2人の首が出ており、フットライトが顔に当たると、その顔が喋りだす。骨壷ですから死人ですよね、死人が3人首だけ出して喋っているという、極端な形のものになってきます。今日の『しあわせな日々』の第2幕で首だけ地面から出している女は『芝居』の骨壷から出た首とちょっと似てるわけですね。ただあそこまで極端化、あるいは抽象化していないだけです。もう一つ極端な例をあげますと、『私じゃない』という80年代の作品があります。暗闇の中に女の唇だけが照明を浴びて浮かび上がって、その唇だけが喋り続けている。顔が見えないんですから、美人で売っている女優はあまりやりたくない芝居でしょうね。というわけで、片やゴドー、

 

 

 

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