人にたくさん囲まれているときではないでしょうか。グループの中にいて、しかも周りに人がいるのに、自分が一人ぽっちだと感じる、その孤独の方が強いようです。このような形の孤独を表現したかったんだと思います。
客1●二つ質問します。一つは今日の『MAY B』ですけど、白塗りでしかもグロテスクな所作が大変多いんですが、それは日本の舞踏とも共通すると思われるんですが、果たして関係があるのかどうか。二つ目はダンスよりも演劇にかなり近いものを感じたのですが、あなた達の踊りはダンスなのか、演劇なのか。
ダンサー2●一つ目の質問ですが、とても面白いと思います。と言うのは、私達自身、先程楽屋でメイクをしながら、日本に来てヨーロッパの批評家達が舞踏に基づいた表現主義的な作品だと言っているこの作品をやることは面白いねと話し合っていたからなんです。確かにヨーロッパの批評家達は、舞踏にふれてこの作品を語ったことがありました。実はこの作品、初演されたのが81年のことです。81年というのはフランスで様々な舞踏のカンパニーが紹介され始め、人々の関心を引いていた時期でした。例えば、カルロッ夕池田や山海塾が紹介され人気を呼び始めた時期でした。ですから、この作品の中には、それを見て、新しいものを見て驚いたという単純な関心が奥にはあったかもしれません。しかし、この作品は舞踏に対して直接、明白に参照をしている作品では決してありません。むしろそうした新しいものに対して開いた精神をもって作られ、その当時の時代の精神を反映していたと言った方がいいでしょう。
ダンサー1●それから二つ目の質問ですが、マギー・マランはいずれにしろダンスを使って創作をしています。しかし、ダンスといってもそれだけに閉じこもるのではなく、演劇的な要素であれ、映像であれ、自分の意図に一番あった要素を取り入れているのです。私達は全員ダンスの勉強をしてきたダンサーですけれども、この劇場でご覧いただいたばかりの『ワーテルゾーイ』の中で見ていただけたと思いますが、音楽を演奏することもありますし、「俳優」的なことを作品の中で行うこともあります。したがって私達の声を肉体と同じように使って、音、音楽にしたり、あるいは意味を持ったテクストを声で言ったりすることもあります。
ダンサー3●付け加えたいことがあります。この作品の中にはとりわけ、表現とダンスが一つになったところがあると思うんです。動きがまるで言語のように書かれており、この作品の中にはいろいろな配役がありますけれども、一