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をさまよっているだけ、こういう状況の中で時間そのものも秩序も全く混乱しています。『また終わるために』という作品の何番目かの小さいテクストがありますが、「おれは生まれる前から、もうあきらめていた」、こういうことを言う。ベケットの主人公達はほとんど死につつあるけれど死ねない、ある老いの状況、老人の状況でしょうけれども、同時にこの「生まれる前」、あたかも生まれる以前の時間というもの、そこにつながってくるような、そういう状況というものが非常にはっきり描かれるわけですね。ですから、やはりベケットのこの徹底した姿勢というもので一体何を読むのか、それをどういうふうに理解して読んで、我々は何をできるのか、そういうことを僕はいつも考えるんですが、それについての答えはなかなかこういう形で話し言葉で簡単には言えません。
こういうことは一種のニヒリズムの表現なのか、あるいは現代芸術のミニマリズム、物事を全部はぎとって最小要素で作品を作るというその一つであるわけですけれども、そういう傾向の一つでありながらベケットの作品というのはその中でも最もユニークなものの一つだと思うんですね。こういう全く愚かな信じられないような馬鹿げた状況、というのをベケットが追求する。愚かさの追求という我々の時代の大きなテーマがあるとすると、そういうことはたぶん19世紀のフローベールやドストエフスキーだとか今世紀のカフカなどの作家がすでに非常にユニークな形で始めたことですけれども、そういう一連の作家達が当然浮かんできます。一方では、あの泥棒の作家であったジャン・ジュネが、ジャン・ジュネと彫刻家のジャコメッティーというのは非常に親しかったわけですが、ジャコメッティーの彫刻の芸術について、「ジャコメッティーの芸術は至上の乞食の芸術である」と言っているんですね。
単に乞食の芸術なんじゃなくて至上の乞食の芸術なんだ、という言い方をしていますが、このベケットの登場人物達の何一つ所有しない、無一文の裸の愚かな状況にある、待つだけの人間達、当然そういうテーマが浮かんでくると思うんです。ベケットの作品というのは、こういう形で一貫して最後にはほとんど何もなくなってしまう。数十秒の息だけの、息だけが聞こえる作品もあるんですね。最後には非常に慎ましい、ある意味で非常に辛辣な、ある意味で何だか奇妙な優しさが最後に漂う。日本語で『伴侶』という作品、それから『見ちがい言いちがい』という作品、最晩年の仕事ではこういう状況をはっきり示して、ベケットは自分の生涯を静かに終わりました。
僕の話はこれで終わりです。ベケットの作品の登場人物は非常に少ないんですね。数人の非常に孤独な人間達。マギー・マランのこの『MAY B』という作品では、「Fini, C'est fini.」、「Ca va finir.」、「Ca va peut-etre finir.」、これは『勝負の終わり』の一番最後の台詞ですが、これを最初に集団で言って、最後には一人で言いました。ベケットのこういう極限された非常に寂しい状況の芝居を、集団でむしろ力強く、場合によっては暴力的な雰囲気の中で踊る。なぜこういう演出になったんでしょうか。こういう演出のもとで、ここでパフォーマンスをなさっているダンサーの方達はこれをどういうふうに感じてらっしゃるか、そんなことからお聞きしたいんですが。

ダンサー1●宇野さん、今のお話とてもありがとうございます。私達にとっても勉強になりました。私やダンサーがベケットに関して今まで把握していなかったことを、ずいぶん教えていただきました。ありがとうございます。宇野さんのお話の後私がお答えするのはとても難しいような気がするのですが、今の質問の中に孤独な人物という言葉がありました。その孤独についてだけお答えしましょう。孤独を一番感じるのは、実は一人でいる時ではなくて他

 

 

 

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