けですね。その罰でもう一生分位の時間をこういう姿勢で待たなければいけない。ベケットはこのベラックワの「待つ」ということに恐ろしくこだわりました。この姿勢にもこだわりました。ベラックワは待っていてひどく悲しそうでもない。もう一生分ここでひざの間に頭を埋めて待っていなければいけない。それはある意味で非常にひどいシチュエーションですね。こういうふうにして待つベラックワの状況というのは、端的にわかりますように、ベケットの全作品にあります。
行動、運動、一切の行動運動の否定ということにつながります。マギー・マランの今日の作品ではダンサー達がとてもよく動きますけれども、そのことについてはまた後で聞いてみたいと思いますが、行動運動を一切否定される、ある行動的なコンテクストを持つ意味というものが一切否定される。行動可能性の一切の否定であって、あるいは言葉の言い方を変えると行動的な身体、体そのものの否定であろうと。こういう身体、行動、意味と密接につながっている時間とか空間、距離、こういうことも一切否定されるであろう。これは、『ゴドーを待ちながら』からベケットのどの作品でも、どんどん徹底されていく傾向です。日本語では『芝居』というタイトルだったと思いますが、この作品では役者達3人、かめの中にじっと入って一切動かない、こういう形で芝居がとにかく続けられていく。最後にはほとんど台詞もなくなってしまいます。
台詞が一切ない。『言葉なき行為』という作品さえもありました。上からはさみだとか台だとか物がただ落ちてくるだけ、主人公は何も言わずにその間