でもとても真実を感じたんですけれども、演ずる上で、または練習や日常生活の上で、そういう表現をするために気をつけていることがあったら聞かせていただけますでしょうか。
ダンサー2●この『ワーテルゾーイ』という作品について言えば、哲学的な背景があると思うんです。最初に考えたのは舞台の上で何ができるかということです。私達はダンサーで、少し音楽をやって少し演技もする、そして全員で何ができるかということを考えました。技術的には本当に少しの手段しか使っていません。音楽も録音していないし、使っている装置も椅子がいくつか、それから小さな楽器、その程度のものです。そうしたわずかな技術的な手段を使って、デュオができる、ソロができる、グループができる、そして全員で何が作れるか、ということがあります。ハーモニカを演奏しながら踊るシーンがありますが、あそこで全員がハーモニカを持っていますが、それぞれが一つの音しか出しません。
つまり楽譜の中の音階の中の一音しか出さないんです。ですから曲、メロディーを作るには、全員が必要になってきます。そうして全員がいることによって、各人がそれぞれ何か演奏をしながら全体を作り出すことができる、わずかなものを使いながら、自分も参加をして、結局は全員で何かをやる、そこであなたがお感じになったような人間的なものが生まれてきたのではないでしょうか。私達はそれぞれいて、でも本当はそれぞれが全員を必要としている、これがこの作品の哲学的な背景です。
ダンサー1●今の質問に別の側面から答えてみたいと思います。一度マギーがこんな話をしてくれたことがあります。マギー・マランは実に感情表現が豊かな人で、本当に怒った時は真っ赤になって怒りますし、泣く時は涙を流して泣きますし、幸せな時は大声で笑う。こんなふうに感情をすごく外に出す人です。でもマギーは言いました。「泣いていたとしても、必ず泣いている自分を見ている自分がいる、そして、距離をとって観察をしている人がいる。幸せな時も同じで、自分は幸せな気持ちだと思いながら同時にその幸せな自分を外から観察している自分が自分の中にいる」こんな話をしてくれました。
私達がこの作品でしなければならなかったことは、それと同じように、こうした自分が持っている感情と、自分が感じている感情とそれを外から距離をとって見るということ、それを逆の方向にやることだと思ったんです。つまり、舞台の真ん中で大笑いをします、その時にはまず感情ではなくて、先に肉体的に技術的に笑い声の音を出すリズムを出してこなければなりません。同時に、本当の感情にそれから近づいていかないと、そのやっている動きが生きたものにならないんです。
客7●今日の踊りと関係ない質問で申しわけないんですけれども、クレテーユというところに本拠を置いていますが、そこはどういうところなんですか。