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らいました。それからおもちゃのピアノを並べて弾くところもありましたけれど、その時にもやはり同じようにオルゴールのようにと言われました。

客3●先程、感情という人間的なものへマギー・マランの振付が向かっているとおっしゃったんですが、その感情を表わすにあたって、あえてデカルトを選んだというところの理由と、デカルトのテキストをどのように各個人が理解したのかをお聞きしたいと思います。

ダンサー2●先ほどユリス(ダンサー1)が最初にした発言の中にもありましたけれど、マギー・マランがデカルトのテキストを選んだのは、人間の感情と距離をおきたかったからだと思います。つまり、デカルトは、この引用された文章の中では人間の情念、感情を実に臨床医学的に冷たく書いています。このように距離を取ることが上手でした。そして今回、私達が使ったデカルトのテキストですけれども、人間の感情をとても機械的に描いています。この言葉のテキストの冷たさと、それから私達がそのシーンで演じる憧憬のような感情であったり、おかしい感情であったり、あるいは感情が苦悩として現れたりする、その間に距離があること、それぞれがコントラストを成していることが重要でした。

客4●途中で仮面をかぶって踊るシーンがあったんですけれども、あれを見て私はアジアのテイストみたいなものを感じたのですが、あの場面というのはどういうところから発想を得ているんですか。

ダンサー4●特にアジア的だとは私は思いませんけれど。あのダンスは私にとって実に田園的な気ままな田舎の踊りだと思います。そしてアジアではそうした民族舞踊のようなもの、田舎の踊りが存在しているからそこで結びついたのではないでしょうか。

ダンサー2●雌牛の仮面ですが、あれはエクアドルの仮面です。

 

私達はそれぞれいて、でも本当はそれぞれが全員を必要としている

 

客5●最初の質問で、音楽と身体表現と言葉と調和する方法を見つければよいとおっしゃっていたんですが、それをもう少しわかりやすく具体的に説明していただきたいのと、それから言葉で表現をする時に、ダンサーの方が言葉の表現に対してとのようなアプローチを望むのか、例えば役者が言葉で表現する時のアプローチとたぶん違うんではないかと思うんですが、リハーサル段階でもしアプローチの仕方に特徴的なことがあるのなら教えてください。

ダンサー1●後半の質問からまずお答えします。マギー・マランのやっていることは、ダンス・演劇・音楽といったそうした分類を超えてしまおうということなんです。そうして一つの総合的な演劇、完全な形の総合的な舞台芸術をめざそうとしています。つまり、ダンスがここまでだとか言わないで、例えばお鍋をたたいて音楽を作ってもいいし、音楽家がいれば音楽をやってもいいのですが、何かここまでが演技であるとか、ここまでがダンスであるとか、そうした限界を超えようとしているところがアイディアです。私達は俳優ではないから演技をしないとか、そういった考え方をしないのです。その中で私達自身も自分自身のできることの限界を超えてだんだんと自分が持っている

 

 

 

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