ここでは藩政時代に遡る古いしきたりが集落の崩壊を防ぎ、過疎化を喰い止める最大の力となっているわけである。なおこの地区では林業家も多く、戦前からの80年をこえる桧もある。林道の整備で機械化が可能になったことが大きく、家族労働力で維持しているが、若者同志が研究し合い集落の活性化に立ち向っている。若者たちに集落の将来を託したい、そう語ったのは長谷豊さん(64歳)である。
次に訪ねたのは中津地区の西村集落。ここの長谷恵男さんは69歳。農林業を行っている。ここがいままでの集落と違うのは、山腹の田に棚田ではあるが比較的広いので機械が導入でき、農業収入の比率がいちばん高い地域であることだ。米作も多くは自家用であるが、7戸出荷している。しかしここも戦後、多い時には40戸あったのが現在では19戸に減少し、住民も40人となった。保育児・高校生各1人を除いて他はほとんどが65歳以上である。そのうち5人は、戸籍は残しているが平素は松山の子供のところに住んでいる。ただし村でのつき合いは残している。人口の減少は昭和40年頃国道が開通し、材木が高く売れたことがあり、それにより経済的な利益を得たことで都会へ出たのがきっかけである。
自分の生業は4.5反の田で、山林はいまのところ間伐材を売り細々とやっている。ミツマタ、煙草の栽培を3、40年続けたが、十年前にやめた。煙草は世話を一年中しなければならず、二度目の減反が行われたのを機にやめた。畜産は肉用牛を30頭飼っていたが、いまは2頭だけである。