脱出が必要と説く。
それは本土との間に橋をかけることである。本土に近い島ならば橋をかけて本土化することである。
と同時に島民は謙譲の美徳を発揮するのではなく、過去にうばわれたものを取り戻すためにもっともっと積極的に政治に働きかけて自己の立場を有利にすべきだと思う。
ここには宮本の怨念ともいうべきものがこめられている。
これが書かれたのは昭和41年である。すでにはじまっていた経済の高度成長による全国的な規模の過疎化に言及するところがないのが不思議といえばいえるが、この時点で宮本は、離島の自立の可能性を探りつつも、島の将来にはかなり悲観的だったように思われる。
しかしそれから30年たったこんにち、宮本の予測は半ば当り、半ばはずれたといえるのではないか。当ったのは、それ以後もいよいよ激しく人口の流出、減少は続き、いまもって歯止めがかかっていないばかりか、日本でいちばんの高齢化率の高い島(町)になってしまった。
当らなかったのは、悲願とした離島たることからの脱出がそれから10年後には実現したことである。大島は離島から本土続きの島ならぬ島となり、離島振興対策実施地域の対象からはずされた。橋だけではない、宮本が歎いた道路事情も、なお整備不充分とはいえ、好転した。公共施設の整備も進んでいる。
いま宮本常一の考察は半分当らなかったといったが、しかしそれは正確な認識ではないであろう。宮本はいっている。島民はもっと政治に働きかけなければいけない、と。その悲願が実現したのは、じつは宮本などの地道な仕事(全国離島振興協議会の初代事務局長となっている)が評価され、それが政治―行政に取り込まれるようになった結果に他ならない。
それにしても隔世の感を禁じえない。
5 集落の現状分析
大島大橋が架けられてからの変化は、「本土」からの客が大量に来島しはじめたことである。ことに通行料が無料化されてからの増加ぶりは著しい。しかもその多くは陸奥記念館であったり片添ヶ浜であったりするが、誰もが金魚の尻尾、東和町を目指す。かつて島末といわれ大島のなかの辺境であった当町が、受入れ施設の整備をしたこともあるが、辺境ゆえにクローズアップされて来た。モータリゼーション時代なればこその逆転現象である。大げさではなく夏場は数珠つなぎで客がやって来る。町ではそ