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圧倒的に多いことから論をおこす。これは享保17年(1732)の大飢饉をきっかけに、飢饉対策としてサツマイモの栽培を導入したのにはじまる。その結果100年間に人口は3倍以上にもなったが(前述)、これは最小限度の食料が確保され飢えがなくなったというだけで、生活の向上があったわけではないと指摘する。この指摘は重要で、だから人口はふえたがそれらがすべて常住したわけではなく、むしろ現金収入の必要性のために出稼ぎが求められ、国内各地に帆船の舸子や大工・木挽きや石工として出かけただけでなく、遠く海外へも出かけたのだ。明治18年(1885)にはじまるハワイ移民がそれである、と。

ちなみにこのハワイ移民とは、ハワイ王国側の事情で日本政府との間に結ばれた移民条約に基づく移民のことをいう。そこでこれを「官約移民」といい、明治18年から同26年(1893)までの9年間、26回にわたり約29万人もの日本人がハワイへ渡っている。とくに山口県や広島県の出身者が多く、山口県でもっとも多かったのが大島の出身者だった。明治18年の第1回の官約移民944人のうち山口県人420人、そのうち156人が大島出身者であった。ハワイ移民は明治27年(1894)から民間の機関にゆだねられ、同32年(1889)までの6年間続いた。この民約移民の時期をへて、明治33年(1890)6月、ハワイ王国がアメリカ合衆国に合併されたことにより、契約移民は廃止された。大島が「ハワイ移民の島」と呼ばれたゆえんであり、その関係で昭和33年(1958)6月にはマウイ島と姉妹島の縁を結んでいる。片添ヶ浜のCCZ計画地域にヤシの木が植えられているのも、それを記念してのものである。

話をもとに戻せば、こうしたハワイ移民(その後のアメリカ本土への移民をふくめて)は、大正8年頃5,000人にのばり、島民の約1割がハワイやアメリカ本土にいたことになる。また同じ頃島民の人口は8万人をこえたが、他の国内外への出稼ぎをふくめると、そのうち3万人余(37%)が島外へ出ていたことになる。

そんなわけで宮本によれば、島在住者の老齢化は大正時代にはじまっていたというのである。島へは移民・出稼ぎ者から次々と送金されたが、しかしそれによる収入増はあくまでも個人のもので、立派な家屋を建てるもの、田畠を購入するものはいたが、島全体の生産向上、社会環境の改良に向わず、道路一つとってみてもそれに投下されなかったから、一向に改善されることはない。第2次世界大戦の勃発で送金も途絶した。戦後は出稼ぎというより離村(島)が進んでいる。そう述べた宮本はつぎのようにいう。「島外からの送金の減少、離村者の激増、さらに老齢化がすすむにつれて、島は次第に末期的な症状を呈しはじめた」と。その島の再生のためには、島の交通を改善し、みかん栽培と養蚕を基幹産業とすることにより経済的な自立をはかることが必要である」というのが結論である。そしてそのためにはぜひとも離島たることからの

 

 

 

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