導入、ドイツ人技師の来山で外来文化が早くから入り、文明開化のさきがけとなった。明治18年から古河鉱業によって経営されてきたが、資源の枯渇により昭和45年に閉山となった。
明治22年の町村制実施で阿仁銅山村に、明治30年町制認可で阿仁合町に改称。旧大阿仁村も古くから開けた町で、農林業中心に発達、狩猟文化の“マタギ”の風俗が現代まで受け継がれている。昭和30年、町村合併促進法によって南部の大阿仁村と北部の阿仁合町が合併し、今日に至っている。
3 人口動態
人口は昭和35年の11,399人をピークに年々減少を続け、平成2年(国調)には5,112人(減少率54.9%)に、さらに平成7年(同)には4,855人にまで滅少(減少率57%)した。若者の流出、少家族化、高齢化の進行で県内有数の過疎地域となっている。
4 地域経済
・産業別就労者数―昭和45年には第一次産業1,861人(49.6%)、第二次産業887人(23.6%)、第三次産業1,004人(26.7%)だったが、その後第一次産業が減少し、第二次、第三次産業が増加傾向を示している。平成2年の構成比率は、第一次22.8%、第二次40.3%、第三次36.8%となっている。特に第一次産業は昭和45年に比べ1,306人(70.2%)減少している。若者の流出による農業後継者の不足、兼業農家の高齢化に伴う農業離れ、生産基盤の劣悪などが原因として考えられる。