面接の相手をしていただいたのは、農業生産法人笹川三愛農場の一員であり、かつて町議もされたN氏(70)、農協婦人部笹川支部長で酪農家のS婦人(50代か)、笹川農村青年会長でやはり農業を営むY氏(30代か)の3人で、ご一緒に笹川公民館で座談した。
N氏は、「鹿追町の人口はピーク時の半分近くにまでになり、人口の推移からみれば、過疎には違いないが、現在残った農家は優秀な農家ばかりで、明るさをもって、常に前向きに農業に励んでいる。農業生産法人は、各人の得意な分野を生かすことができ、もっと進めるべきだ」と述べ、S夫人は、百頭以上もの乳牛を世話しながら、料理の工夫などもこらしている。都会の出身者とは思えないほど、農村にすっかりとけこんでいる。Y氏は、生活に不満はなく、ずっと農業を続けたいようである。総括して明るさが感じられ、さわやかでホッとした気持ちになって座談を終えることができた。
これとは別に、町長の岡野友行氏とも3時間にわたって意見交換する機会を得た。岡野町長は、戦後すぐ鹿追村役場に入り、昭和27年には、北海道町村の幹部候補者の教育機関である北海道自治講習所で1年間の教育を受けた。その後、町役場の各役職を歴任し、昭和62年5月から町長に就任している。
町長は、日本経済の高度成長に伴う税収増が公共投資拡大、北海道開発予算の拡大を可能にし、それによって、鹿追町の農業基盤が整備された。いろいろとむつかしい問題はあるが、豊かな農村をつくっていきたい。都市の人々に、鹿追町として何を提供できるのかを考え、実現していきたいとのことであった。“年輪の村”構想が着々と実現されている中での自信を感じさせる発言であった。
以上にみるように、鹿追町の集落については、比較的大括りされていることもあって直ちに問題を発生することはないようである。